外伝 『ゆえ、魔法世界にて』


「待ってくださいッ!」

 表通りの喧噪とうってかわって、気味の悪いほど人気のない裏路地にて、
 ようやく一人の男を追いつめたです。
 その男は、私と同年代くらいの若い男で、旧世界の……学校の制服を思わせる服を着ているです。
 ナギ・スプリングフィールド杯の開催によって人たちが沸いているオスティアでは、
 極めて場違いの格好をしているのにも関わらず、誰も彼の存在に気づいていないかのようでした。

 それに……。
 この男を見ているだけで心の奥底を揺さぶられるような気がするです。
 コレットと出会う以前の記憶に、この男と私が会っていたのでしょうか?

「……ん? 追ってくるやつがいるかと思ったら、ゆえじゃないか。
 なんでお前が……って、そりゃ当たり前か。ネギのやつらがいる時点で、お前も来ているはずだしな」

 彼が振り向いた瞬間、心臓が跳ね上がるような気がしました。
 アリアドネーでの授業で、過去の英雄ナギ・スプリングフィールドを見たときとは比にならないほどの胸の高鳴りで……。
 しかも、彼は私のことを知っていたです。

 私の過去のことを知っているのならば、是非、聞きたい、と思っていた矢先でした。

「何であなたがここにいるんですかッ!」

 よくわからない衝動で、服の裾から杖を出していました。
 頭で考えていることとは全く反対の反応であるのに、一切の躊躇無く、
 まるで西部劇の早撃ちのように構えていました。

「どうしたんだよ、ゆえ。んなもん、俺に向けて……」
「うるさいです! 黙れです! 質問にだけ答えればいいですッ!」

 気が付くと、息が切れていました。
 かなり大量の空気が、肺の中を行き来しているのに、全然酸素が足りません。
 頭に血が上ったかのように、くらくらとし、目の前に白みがかかっています。
 心臓がどくどくと脈打ち、痛いほどです。

 こんなこと……こんなことこれっぽっちも言いたくないはずなのです。
 ですが、今私が思考しているのと別の心の部位が、血を吹き出しながら、この言葉を吐いています。

「……あん? んー、おかしいな、なんでこんな……」
「黙れと言っているのが、わからないですかっ!
 フォア・ゾ・クラティカ・ソクラティカ……」

 始動キーまで言いかけたそのとき、何かが首に掛かるような感触を味わったです。
 やられた、と思ったですが、左手で首に触れても何もなかったです。
 目の前の男も何かをした気配もなく、手を顎に触れて、考え込むようにぶつぶつ何かをつぶやいているだけですし。

 今のは一体なんなのか、よくわかりませんが、気が付けば、膝ががくがくと震え始めました。
 私は何かとんでもないことをしでかしてしまった気がひしひしとします。
 寒さとは無縁のはずのオスティアのこの陽気の中、足の先まで冷え切ってうまく動かせないです。

「今のは始動キーか?
 ほほう、なるほどなるほど、始動キーまで手に入れたってことは、
 ネギあたりに魔法を教えて貰ったのか?」

 ネギ!?
 確か、ネギは私のパクティオーカードに書かれていた名前です。

 ……どうやらこの男は、完全に私の過去を知っているようです。
 なんとしても、聞き出さないと……。

「誰に教わろうと私の勝手です!
 人の前から急にいなくなったくせに、突然現れて保護者面するなですッ!」
「いや、まあ……別にここにゃお前に会いに来たわけじゃないし、
 保護者面もさらさらするつもりはないが……」

 ……こ、心が苦しいです。
 心臓に細かな針がたくさん刺さってるみたいに、痛みます。
 目からは涙が出てきて、瞳の奥が火傷するくらい熱くなっています。

 もうこの場でうずくまって泣きわめきたいです。
 泣きわめきたいのに……でも、体は勝手に動き始めたんです。

「フォア・ゾ・クラティカ・ソクラティカ……」

 始動キーを唱えた瞬間、また再び首元に何かを巻き付けられるかのような感覚に襲われました。
 喉の奥が潰されそうな、そんな辛い状態なのに、呪文の詠唱が止まりません。

「闇夜を切り裂く一条の光……」

 唱えた呪文は『白き雷』
 今の私が唱えることのできる一番強い魔法であり、一般人であるのならば例え魔法使いであっても、
 ただの怪我ではすまされないほどの威力があるです。

「おいおい、流石にそれをやっちゃまずいだろ?
 お前程度の雑魚にやられるつもりはないが、俺の張った認識阻害の魔法が剥がれちまうだろうが」
「我が手に宿りて 敵を喰らえッ!」
「いい加減にしろ、お前と縁を切るぞ」
「白き……」

 震える手から、杖が落ちました。
 杖はとっとと音を立て、地面を跳ね、そのまま目の前の男の足下に転がります。
 ぼろぼろと涙が目から溢れて、視界がぼやけて、何も見えません。
 ただ、気配ですぐ近くまで男が来たことだけがわかるです……。

 そっと、額に暖かな手が当てられたようです。
 男の手の体温が、冷え切った体にはすごく心地よくて……。

「……なんじゃこら? 記憶を消されてる?
 ちっ、アデアット……ああ、クソ、エドのいにっきはもう無いんだった。
 契約主が死んだらアーティファクトが使えなくなる設定はやめろっての……。
 幸い、契約暗示はアーティファクトが無くても残留しているからいいものの」

 エドの、いにっき……?

 なんでしたっけ、それは?
 思い出せない、思い出せない……記憶がないことがとても歯がゆいです。
 その、エドのいにっきというものは、確か私にとってとても大切な何かだったような……。

「何が原因だ? ちょっと動くなよ、過去視して何があったのか探るからな」

 額に触れた手から、慣れ親しんだ魔力が流れてきました。
 魔力は私の頭の中を内側から撫でるように動き、何かを探っているようです。

 何か触れられてはいけない記憶の蓋に、ほんの少しだけ魔力が触れると、
 魔力はいきなり潮が引いたかのように私の頭の中から逃げ出しました。

「おっとっと……危ない危ない……俺まで記憶消去の魔法に当てられるところだった。
 ふぅむ……事故か。まあ、故意に記憶を消されたわけじゃないんなら大丈夫だと思うが」

 記憶を読まれていた……ということは、この人も腕が確かな読心術師なのでしょうか。
 アリアドネーでも、読心術師はあまり好まれていない存在だったため、
 接触する機会はありませんでしたが、この心を読まれる感覚は、ひどく懐かしいものに感じられるです。

 しかも、その懐かしさは尋常ではなく、瞳の奥が熱くなって、
 また大量の涙を流してしまいそうな、そんな強いものでした。

「ま、それはともかく、ゆえ、ちょっと悪いけどさ……金貸してくんない?」
「は?」
「いやさー、こっち来たのはいいんだけど、軍資金がからっきしでさ。
 いちいちどっかに雇って貰って金を稼ぐのは時間的に無理だし、
 かといって誰かを襲って金を奪うのはリスクが大きすぎる。
 今、外でやってる拳闘にエントリーして賞金を稼ぐのは……ちょっと目立ちすぎるしな。
 まあ、連中に気づかれないとは思うが、気づかれたらそこで詰む。
 というわけで一つ、アリアドネーでいつの間にか公務員に就職してたゆえに
 ちょっとお金を恵んで貰えないかと」

 ……思わず、拳を右頬に突きだしていました。
 何げにそれをちゃっかり受け止めて回避しているのが余計に憎らしいです。

 人にこんな思いをさせておきながら、そんなことを言い出すなんてなんて酷い男なのでしょう。
 右手を掴まれているのなら、左手で殴ってやろうかと思っていたら、顔をすぐ近くに寄せてきたです。

「ちゃんとお礼はしてやるから」

 そう耳元で囁いてきました。
 極めてゲスな発想で、当然承伏することなど考えられないです。



 が……頭でそう考えていても、突き放すことはできませんでした。
 脳髄の奥底がしびれるようなそんな感覚に襲われ、段々と思考が鈍化していきます。
 膝が震え、腰周りに甘い痺れが入りました。

 まさか、と思いましたが、下着に何か生暖かい液体が付着しているのが感じられたです。

「ふぁ……ぁ……」

 男の息が耳の裏をなでるたびに全身の力が吸い取られるかのように抜けていくです。
 真っ直ぐ立っているのも大変なくらい足が震えはじめたです。

 そっと背中に手が回され、支えられるような形で立ち、
 ふらふらと壁に向かって追いつめられるような形になりました。
 熱くなった背中に冷たい壁が心地よく、そしてこれ以上戻ることはできないということがわかったです。

 今までも十分過ぎるほど近かった男の顔が、更にぐぐと近づいてきました。

「……んん!」

 こ、この体勢は……ひょ、ひょっとしてキス、されるですか?
 ま、まだ私、キスもしたことないの……い、いえ、キスをしたことがあったですか?
 確かにキスした云々は、否定しようとも、出来ません。
 頭の中で、やたらリアルな、その……き、き、キスの記憶が……。



「まったああああああああああああ!!!」

 唇が触れるか否か、というときに、大きな声が路地に響きました。
 男が離れる気配がして、少し遅れて恐る恐る目を開くと、
 路地の入り口にアリアドネー戦乙女騎士団の正式鎧をまとった人物が立っていました。

 兜の隙間から見える顔には、見覚えがあるです。

「こぉらっ、戦乙女騎士団に手を出して無傷でオスティアから出られるとは思わないでよっ!」
「こ、コレット……」

 私が記憶を失ってから一番最初に会った人物。
 今までとてもよく世話をしてくれた、親友でした。

「ほお、この子がコレットか……」

 はっとして男の顔を見ると、にやりと、笑っていました。
 心臓がトクンと大きく跳ねました。

 とても、不味いです……この男が、この表情を浮かべたときは……大抵、悪巧みをしようとしているときで……。

「いくらその子が小柄だからって、気性はすっごく荒いんだからね! ガブーっとかみつくよ!」
「いやいや、あなたがコレットさんですか。このたびはウチのユエが大変お世話になり……」
「だから今すぐユエから手を……って、え?」
「数週間前、商売と観光を兼ねてユエと一緒にアリアドネーに行ったんですが、
 目を離したすきにいなくなってしまいましてね……色々と手を尽くしたんですが、どうにも見つからなくて。
 そういえば、ユエはこのオスティアで開催されたお祭りに行きたがっていたことを思い出しまして、
 もしかしたら、と思って来てみたんですが、本当に会えるとは……。
 あ、申し遅れましたが、わたくし、メガロメセンブリアのハルハラ商会のタマ・ハルハラと申します。
 このたびは、ユエがお世話になったようで、本当にありがとうございました」
「え? あ、ゆ、ユエ、よかったね! 知っている人に会えたんだ!」

 コレットが構えを解いて、無防備に近づいてきました。

 ち、違うです、コレット。
 この男は、メガロメセンブリアの人間でなければ、ハルハラ商会なんてものも存在すらしていないです。
 平然と嘘をつき、身分を偽り、本来の人格を覆い隠してだまし討ちをする人間なんです。

 一見穏和そうな表情の仮面を取り外したときには、もう既に遅いです。
 逃げるです、コレット……。

 心の中ではそう叫んでいるのに、何故か口に出せません。
 表情すら変えられず、コレットに伝える手段もないです。
 このまま、また親友がこの男の手に落ちるのを、じっと見据えていないといけないなんて……



 コレットが私に近づいてきたときでした。
 突然、男が右手でコレットの兜の隙間に手を差し入れ、
 そのままコレットの首を掴んだかと思いきや、思いっきり路地の壁にたたきつけました。

「きゃあッ……」
「な、何してるですかっ!」
「あぁん? 何がユエ、良かったね、だ。
 人の女の頭ん中いじり回したくせに、ふざけんじゃねぇぞ!」

 突然、男は大声を張り上げました。
 今まで一度も見たことのないほど怒気を荒げ、コレットの首にかけている手をじりじりと締めています。
 コレットは悲鳴を出すことすらも出来ず、苦悶の表情を浮かべ、手に持っていた戦乙女騎士団の携帯用杖を落としました。

「ご、ごめんなさい……」
「あぁっ!? 今更詫びいれてもおせぇんだよ!」
「な、な、な、何やってるですか! や、や、やめるですよ!」

 流石にこれ以上放っておいたら、本当にコレットが殺されてしまうです。

 男の裾を引っ張って止めようとしたら、手を翻して交わし、
 あろうことか、私の腰に手を触れ、ぐぐい、と引き寄せてしまったです。


 と、とにかく、コレットの首をこれ以上絞めないようにさせないとまずいです。
 う、嬉しいとか考えたりしたらダメです、私!

「どうもおかしいと思ってたんだよな。
 アリアドネーじゃ最近人さらいが多発してやがるらしいし、
 ユエがいなくなったから、アリアドネーの自警組織に捜索依頼を出しても、知らぬ存ぜぬの一点張り。
 どうやら、アリアドネーのアカデミーじゃ、乞食やなにやらを攫ってきて、
 非合法な実験をしているって噂もあながち嘘じゃねぇらしいな。
 さすがは、どんな犯罪者だろうが学ぶ意思があれば逮捕すらされない国だ。
 そもそも人体実験自体が違法じゃないってわけかよ。
 まあいい、アリアドネーのアカデミーの方には後々責任を取って貰おう。
 ただ、てめぇの落とし前はどうつけてやろうか?」
「ちっ、ちがっ……き、記憶を消したのは、じ、事故で」
「実験施設で事故が起きて、逃げだそうとしたから記憶を消したのか」
「ち、違うっ! そんなことないッ!」

 あ、アリアドネー? アカデミー? 人体実験?



 ……う、嘘です。
 この男は、嘘をつきまくっています。
 目でわかります……が、よくもまあ、こんな嘘を平然とすらすらとつけるものです。

「わ、私が記憶消去の魔法を練習中に、ユエが突然目の前に現れて……
 ぶつかった衝撃で記憶消去の魔法が暴発して、それで……ああっ!」
「なあ、俺はもうとっくにぶちギレてんだよ。
 これ以上俺を怒らせるような嘘をついて、何がしたいんだよ、なあ!」
「と、とにかく、もうやめるです、本当にコレットが死んでしまうです!」

 必死に動いたおかげで、男の手をコレットから引きはがすことが出来ました。
 コレットはその場で倒れて、首に手を当ててけほけほと咳払いをしています。
 そして、男は、両手を私の背中に回して、強く抱きしめてきました。

「ゆえ……ゆえ、お前は何ももう覚えちゃいないんだよな。
 俺が、親父にたてついてまでお前と一緒になろうと、メガロメセンブリアホテルで告白したことも、
 お前は何一つ覚えちゃいないんだよな……。
 くやしい、くやしいんだよ、俺ぁ……折角親父に認めさせて、
 記念にお前が観光したがっていたアリアドネーまで一緒に行って……急にいなくなったかと思えば、
 アリアドネーの戦乙女騎士団に入ってる……。
 あの、魔法のまの字もろくにしらなかったお前がだぞ!
 散々、体をいじられたんだろうなあ、魔力もろくにないお前が魔法を使いこなすようになるようになるなんて、
 一体どれだけ改造をされたのか……あんまりだ、いくらなんでもあんまりすぎる。
 帰ったら、検査をしてもらおう。体に……何かあったら大変だしな」

 涙声になっていっていますが、これもまた演技……のようです。
 私とこの男の関係とは、もっと違うものでした……記憶の蓋がとれかかっているのでしょうか、
 少しずつ、私の記憶が断片的に蘇っているようです。

 でも、何か、ひっかかるような。
 嘘をついているのはわかっているのですが、何かこう、それだけでは納得することのできない何かがあります。

「いたッ!」

 男は足を動かして、コレットの手を踏みつけました。
 コレットの手の先には杖があり、それを拾おうとしていたのを阻止したようです。

「……落とし前はきっちりつけてもらおうか」

 男は私から離れ、コレットの手の甲をぐりぐりと踏みつけながら、そういいました。
 どんな表情を浮かべているのか、コレットの方からは見えるはずですが……正直な話想像もしたくなかったです。














 ……それから数時間後。
 コレットは、例のごとくまんまと騙されていました。
 男……春原さんが私の恋人と信じ、私の記憶を消してしまったことと、
 アリアドネーに対する不信感が罪悪感として残り、そこをうまく突かれた上、
 傍若無人な言葉使いと暴力と、背景に匂わすヤのつく職業のことをちらつかせて脅されて、
 あっという間に洗脳されてしまいました。

 私と洗脳されたコレットはアリアドネー戦乙女騎士団の元へは帰りませんでした。
 けれど道中でたまたま出会った委員長とその友人のベアトリクスを……
 コレットとともに騙して、春原さんの元へと連れて行きました。

 春原さんがオスティアで潜伏している場所にたどり着くと、
 テーブルの上に置いてあった水晶球の中に、
 コレットとともにせいののタイミングで委員長とベアトリクスを引きずりこんで……。
 水晶球の中で、春原さんは、その正体を明かしました。

 委員長と、ベアトリクスは春原さんと戦う選択肢を取りました。
 春原さんはアーティファクトを使って人を洗脳する工作員で、
 実際アーティファクトにかかりっきりの上、俺はそれほど強くない、と何度も言っていましたので、
 戦闘能力はそれほどではない……と思っていましたが、それは間違いでした。

 委員長とベアトリクスは春原さんにまるで歯が立ちませんでした。
 力の差が歴然であることを見せつけ、あの委員長とベアトリクスの息の合わせた同時攻撃が、
 ただの障壁一つで弾き、ただのサギタマギカで単発で正確に二人を打ち抜き、あっという間に戦闘不能にしてしまいました。
 明らかに力を抜いていたあげく、更にまだ切り札があるのです。

 春原さんは、また再び『エドのいにっき』を手にしたわけですが、
 エドのいにっきには常にいくつもの呪文が書き込まれているのです。
 その呪文を発動することによって、高火力の魔法を無詠唱ノーモーションで発動できるらしいです。
 もちろん、精度はあまり高くはないでしょうが、それだけでも十分なアドバンテージ。
 うまく運用することができれば、相当な強さがあるのではないのでしょうか。

 閑話休題です。

 春原さんは、委員長とベアトリクスを気絶させ、コレットに二人を運ばせて、
 鉄の扉の地下室へと連れて行きました。
 未だに、コレットがかけたという記憶消失の魔法は完全に解けていないはずなのですが、
 あの鉄の扉を見たとき、全身に怖気が走り、足がすくみ……ちょっと漏らしたです。

 と、とにかくっ、私は春原さんの後を追い、その鉄の扉の部屋に入ろうとしました。

『あ、ゆえは隣室で本でも読んでいてくれよ。
 魔法に関する本だから、ちょっとは役に立つだろうし』

 とまあ、春原さんに言われて、その通り、今現在、本を読んでいるわけですが。



 正直なところ、生きた心地がしないです。
 隣から聞こえるのは、怒声に悲鳴に嬌声……どうしろというのでしょう?
 今ではほとんど嬌声と、微かに聞こえる泣き声くらいしか聞こえませんが、
 それでも十分以上に問題です。

 しかも、その状況に妙に落ち着くことのできる自分自身が少し怖いです。
 記憶が喪失状態になったとはいえ、性格や思考方法などはそれほど変化しないらしいので、
 これが私の元々の人格と言えるですが……私は一体どのような人間だったのか。

 たまたま開いた本の隙間に、首輪をかけ尻尾をつけた全裸の私の写真が挟まっていましたが、
 とりあえず見なかったことにして、その本を本棚に戻しておきました。



 とりあえず、手持ちぶさたで、そわそわとし、
 隣の部屋から漏れ出る淫気にやられたのか……その、自分で致そうか、という気分もわき上がってきたわけですが。
 残念ながら、それもできずに。
 こんなものをつけられてしまったら……

『あー、ゆえー、部屋に来てくれ』
「わきゃっ!」

 突然、頭の中から声がしました。
 エドのいにっきでの乱暴な通信ではなくて、もっともっと優しい連絡手段です。

 おずおずと、ポケットに手を伸ばし、一枚のカードを取り出します。
 そのカードには冴えない男が、古ぼけた本を持っている絵が浮かんでいます。
 『悪質な立ち読み男』と書かれたそのカードをゆっくり、深呼吸をしてから額に当てます。

『なんですか? 何か問題でも発生したですか?』

 テレパティア(念話)です。
 仮契約を行った相手同士が通じることのできる念話手段です。

『いや、違う違う。
 お前のおかげで、アリアドネーの戦乙女騎士団見習いを三人確保できたからな。
 ちょっとした副収入も出来たし、お前にご褒美でもやろうかと思ったんだよ』
『ご、ご褒美、ですか?』
『そう、コレットが邪魔しなけりゃやってたことの続きだな』

 思わず、あのときのことを思い出して、頭のてっぺんに血が上っていくような感覚に襲われました。
 あ、あのときは確か顔を近づけさせられて、そ、その、キスを……。

 顔に血が集まりすぎて、熱を出しています。
 きっと他の人が見たら、私の顔はボッと音を立ててもおかしくないほど真っ赤に染まっているでしょう。

『俺はお前のミニストラ・マギだからな、他の奴らよりも特別扱いしてやるよ』

 私は春原さんと仮契約を交わしました。
 既に私はネギ・スプリングフィールドという人と仮契約を交わしていましたが、
 今回は私が主で春原さんが従者となる仮契約なので、二重契約とはならなかったようです。

 だから、今、私が春原さんの仮契約カードを持っており、
 春原さんは自分自身の仮契約カードのレプリカを持って、テレパティアが行えるというわけです。
 何故、春原さんの仮契約がなくなったかというと……前の主人が死んだからだそうです。


 私は今まで読んでいた本をそっと閉じて、立ち上がりました。
 ゆっくりゆっくり足を進め、すぐ隣の部屋の鉄の扉に手をかけます。

 ぎぃぃ、と音を立てて扉が開くと、中には相変わらずやけに広い部屋が見えました。

「……」

 正直なところ声が出せませんでした。
 中には沢山の淫靡な雰囲気を放つ道具や装置が置かれ、そのうちいくつかに人間が拘束されていたからです。

 コレットは、分娩台のようなものに拘束され、機械で駆動するバイブによって攻め続けられています。
 ギャグを噛まされ、何も言えずに……いえ、違います。
 とっくにコレットは白目を剥き、失神していました。
 この様子から見れば相当前から失神しているように見えます。
 それでも尚、機械は無情にも攻める手を全く止めていません。

 何度イったのか、床に広がる愛液とおしっこの量は膨大で、数えることすらできなさそうです。

「ほら、あと五秒したら面白いものが見れるぞ。
 3……2……1……」
「ん゛ん゛ん゛ん゛んッ!!」

 春原さんのカウントと同時にバイブが止まると、ぶしゅう、という音がしました。
 コレットのあそこから、大量の液体があふれ出します。

 もちろん、失神していたコレットは再び目を覚まし、バイブから注がれる液体のせいか、
 狂乱するかのように暴れ始めました。

 動いている間には解りませんでしたが、バイブには透明な容器が取り付けられており、
 コレットから液体があふれ出た後、その透明な容器が取り外され、
 今度は液体が入っている容器がバイブに取り付けられたかと思うと、
 ごぼごぼと液体がバイブの中に流れ込んでいきました。

 きっと液体は媚薬なのでしょう。
 定期的にバイブから放出して、コレットが気絶しっぱなしの状態にしないようなとても残酷な仕組みのようです。

 全ての作業が終わったのか、バイブがまた再び緩やかに動き始めました。
 同時にコレットは電気ショックを与えられているかのようにびくびくと跳ね、
 なんとしてでも逃れようと、空しい抵抗をしはじめました。

 しかし、高速でバイブが動くようになると、ギャグをつけられたまま獣のような声を上げ、
 何度も何度も絶頂を迎えるようになったです。

「『ごめんなさいごめんなさい許して許してゆえ許してゆえお願いしますお願いします』だってさ。
 そこに停止スイッチがあるけど、止めてやるのか?」

 春原さんはエドのいにっきでコレットの思考を読みながら、にやにやと笑いつつ言いました。
 止めてやるのか? といっていますが、明らかに私を試しているようです。

 私も、そっとコレットを助けるため、停止スイッチに手をかけようとしました。

「……ごめんなさい、コレット」

 しかし、私は停止スイッチではなく、隣の調整スイッチを操作していました。
 『中』から『強』へと。

 バイブの動きがより一層激しいものになり、バイブそのものが回転する動きが加わりました。
 コレットが今まで以上に体を震わせ、苦悶の表情を浮かべながら声を上げ始めました。

 だって……だって、しょうがないじゃないですか。
 春原さんは、私が停止スイッチを押したら、間違いなく私に落胆します。
 残念がります。
 その程度か、という意味合いの視線を投げかけてきます。

 そんなことをされたら……そんなことをされたら私は胸が、胸が痛くなって……。

 ……それに、それに、コレットは私の記憶を消したわけでもあります。
 今でもおぼろげにしかありませんが、春原さんとの記憶を消されたのですから、
 私にもこれくらいのことをする権利くらい、あるはずです。

 親友を裏切ったことに対して、胸がじくじく痛みます。
 コレットの目が私を見ているようで……。

「おーし、よくやったなゆえ。それでこそ『俺の』ゆえだ」

 けれども、春原さんがそんなことを言いながら頭をぽんぽんと撫でてくれると、
 すぐに頭の中から消え去ってしまいました。

「何、そんな気に病むことはない。あと少ししたらこの機械を止めてやる。
 ……今度は機械を絶対に動かしてやらないがな」

 ああ、きっとコレットは媚薬漬けにされたまま、拘束され続けるのでしょう。
 私はされたことがないからわかりませんが……。

 ……私がされたことがないのならば、誰がされたのでしょうか?




 コレットよりも奥には委員長がいました。
 彼女は跳び箱のような形状をしたものに手足を拘束されていました。

 その傍らには、あまり見たくない形状の器具が置かれている。

「彼女は中々金持ちらしいからな。
 浣腸液二十本を相場の二十倍の値段で買い取ってもらったのさ」

 容器には売約済みと書かれた紙が貼られています。
 そこはかとなく馬鹿にした雰囲気があります。

 さきほどこの部屋から聞こえた怒声は主に委員長のものでした。
 そして同時に、この部屋から聞こえた悲鳴もまた委員長のものでした。
 これが何を差すのかは、考えてみるまでもないです。

「お試しに二本差し上げたら、大層喜んでな。
 五ドラクマもしないもんが、二千ドラクマ……セット価格で二千五百ドラクマーで売れたわけだ」

 なんでセット価格になると高くなるのかわかりませんが、
 とにかく相当な値段をふっかけたようです。
 多分、委員長は強い気質で二回断ったらしいですが、それのせいで二回もされたなんて。

 そして、浣腸液を買ったのは、全くの救いではないのです。
 それに今も尚、気づいていない委員長には……かける言葉が見つかりません。

「さて、それじゃあ、このお嬢さんに購入して頂いた浣腸液を使うとしますか」
「なっ、なあッ! わ、私が買ったのですよ! なぜ、使うのですかっ!」
「馬鹿だなあ、浣腸液の用途は浣腸することだけじゃないか。
 折角買ったんだから、使わないと損だろ?」
「いっ、いや、やめて! も、もう嫌なのっ!
 買わなきゃ、お、お浣腸をするというから買いましたのにッ!
 買ったら買ったで、するなんて、詐欺ですわっ!
 も、もうあんな姿を見せるのはいやぁあああっ!」

 春原さんは委員長の嘆願を無視し、わざと委員長に見えるような形で浣腸器に浣腸液を入れましたです。

「なあ、お嬢さん。
 この状況に至ってお嬢さんに『浣腸液を売る』っていう行為に本当に意味があったと思うのか?
 俺はお嬢さんの財布を奪っちゃえばそれでおしまいだろ?
 それなのにわざわざ浣腸液を売るという形で、金を得ようとして、俺に一体何の得があるっていうんだ。
 全ては余興。場を盛り上げるための茶番に過ぎなかったってわけさ。
 どんなことがあろうと、お嬢さんにはここにあるだけの浣腸液を使って貰う予定だった」
「ひっ、酷い……酷いですわ……そんな、そんなことをよく出来ますね……」
「この状況でそんな口を叩くのは、確かに気分はいいかもしれないし、
 お嬢さんの最も好きなことの一つかもしれんが、立ち位置を不利にすることを警告しておくぞ」

 春原さんは無慈悲にも委員長のお尻に浣腸器を挿入し、ゆっくりと浣腸液を注ぎ始めました。
 少しずつ少しずつ、浣腸液が中に消え、それにつれて委員長が、悲鳴を上げています。

 全てを注ぎ終わると、春原さんは浣腸器を外し、代わりにアナルバイブを栓として入れました。

「ほら、ゆえ、先輩として何か助言してやれ」
「う……い、委員長、な、なるべく早くアナルバイブを外して貰うよう、春原さんに頼むです……」
「うるさいわねッ! あ、あなたのせいでこんな目に遭っているのじゃない! この悪魔!」

 うっ……さ、流石にわかっていたとはいえ、この悪罵はきついです。
 確かにこの事態を招いたのは私ですし、委員長を巻き込んだのもひとえに私の責任です。
 こんな風に責め立てられるのも、承知の上でしたが……けれども。

「あん? 俺のゆえに対して何言っちゃってるの?
 いいか、ここではお前は虫けら以下なんだ、その虫けら以下の存在が、
 俺のゆえに対して、そんな口聞いていいと思ってるのか?」
「お黙りなさい! このっ、変態! 卑劣漢!」
「……いいね、その威勢いいね。
 でも、ゆえを馬鹿にされたことがむかついた。ちょっと、お腹冷やそうか」

 春原さんは部屋の隅に置いてあった小さな冷蔵庫の中から氷の入ったビニール袋を取り出しました。
 部屋に出した途端ビニールの周りに結露するほどです。
 そしてそれを、まるでおもちゃのように扱い、委員長の腰の上にぽんと置いたのです。

 私は咄嗟に耳をふさぎました。
 それでも尚、鼓膜を痛いほど揺さぶるような絶叫が部屋の中に響いたのです。

 ただでさえ、浣腸をされ、尚かつアナルバイブで栓をされている状態で、
 お腹の痛さはマックスに近い状態であるのに、その上氷水の入ったビニール袋を腰の上に載せられる。
 そのつらさは想像することすらできません。

 春原さんがまるで魔王にすら見えてきました。

「ゆえに謝れよ、な?
 意思が固いのはわかったから、素直に謝って楽になろうぜ」
「ご、ごべんなざいっ! ごべんなざいっ! ゆるじで、ゆるじでくだざいっ!」

 さっきまでも十分以上に涙と鼻水にまみれていた委員長の顔が更に酷いものになっていました。
 流石に私も見ていられなくなり、自分の手で氷水の入ったビニール袋を投げ捨てました。

「ほら、とっても優しいゆえは許してくれたぞ。
 そうやって素直に謝れば、もうちょっとうまく立ち回れただろうに。
 ま、とりあえず、俺はゆえほど優しくないから……」

 春原さんは浣腸液の入った容器を五、六本抱えると冷蔵庫の中に入れました。

「次からはキンキンに冷えた浣腸液な」

 春原さんは本気の目をしていました。
 多分、私が何を言っても、情状酌量なんてことはしてくれないでしょう。
 私に出来ることといったら、未だにショックから立ち直れない委員長に対して、
 魔法を唱えて、眠らせることだけです。

 何の救いにもなりませんが、少しでも苦痛から逃れさせてやることはこれが精一杯でした。





 最後は、ベアトリクスでした。
 委員長の無二の親友であり、どこか委員長に付き従うような形でしたが、
 それに対して不満を浮かべるわけでもなく、とても仲の良い友人であった彼女は、
 他の人とは違ったことをされていました。

 手足を拘束されているのは他の人と同じですが、
 頭にヘッドセットをかぶせられているだけで、一見して性的な辱めをされていないように見えます。
 制服も、鎧なんかは剥がされていますが、それ以外は特に目立って荒らされていません。

 ただ、それだけにあの頭につけられたヘルメット状の装置が気になります。

「……ゆえは知らない方がいい」
「え?」
「適当にあさっているうちに見つけたモンだが、ゆえは知らなくていい」
「どういうこと……ですか?」

 春原さんはにいと笑いました。
 凄く楽しそうに……。
 この人の笑いは、楽しそうであればあるほど、その笑みの意味するところは凄く深くて暗いものになっていきます。

 今浮かべた笑みは、今まで見たことのある笑みなんかとは桁違いに楽しそうでした。

「ゆえのことを思って言うぞ。ゆえは『知らなくていい』」
「そ、そうです、か」

 相当、やばいらしいです。
 きっと、委員長やコレットがされていることが子供の遊びに思えるようなことなのでしょう。

 ……ごめんなさい、ベアトリクス。
 私は、これ以上踏み込むことができません。
 春原さんのことが好きだ、とかそういうことではなく、ただ私が臆病であるから踏み込むことができません。

「ま、彼女はあそこのお嬢さんを庇おうとしたからな。
 心意気はすばらしいけど、なんか俺が甘っちょろいやつだと思っているみたいでムカついたからさ」

 ……この人の逆鱗はいまいちどこにあるのかわからないです。
 鉄の扉の奥に入ってから、ベアトリクスが一体何を言ったのかわかりませんが、
 きっと逆鱗に触れてしまうことを言ってしまったのでしょう。

 春原さんは、基本的に楽しめればいい、というスタンスで動いています。
 極めて鬼畜なことを平然としたりしますが、鬼畜なことをされる側がいかなる反応を返すかが、
 主に春原さんの楽しみらしいです。

 今ベアトリクスにやっていることは、春原さんの趣味に合わない行為です。
 こんな状態では、反応も何も出来るはずがありません。

 ということは、恐らく、ベアトリクスが春原さんの不興を……
 それもとてもものすごいものを買ってしまったのでしょう。

 それが何か、ということは、怖くて聞けません。
 私もまた、同じ轍を踏まないとも限らないのですから。





 そして、この部屋で春原さんの餌食にされる人間がまた一人。
 すなわち私です。
 この異様な器具に囲まれた部屋で、普通のベッドというものは極めて異質な存在でした。
 私はそこに座らされ、春原さんは私の隣に座りました。

 春原さんはそっと首の後ろに手をやり、私を引き寄せました。
 まるで繊細なガラス細工を扱うような、優しい手つきで私に触れてきます。

「ん……んん……や、優しくしないで欲しいです……」
「……なるほど、記憶を消されても言うことはさして変わらないのか」

 なんだか意味深なことを言った春原さんは、そのままそっと唇を付けてきました。
 私の唇を割りさいて、中に舌が入り込んできます。

「……」

 ぬるぬると、舌が私の口の中を動き回ります。
 全身がとろけそうになるほどの快感に襲われ、
 思わず倒れそうになるのを、春原さんはそっと抱きしめてくれました。

 頭の中に霞がかかり、だんだんと白みがかかってきたかと思うと、
 一気に、記憶の奔流があふれかえってきました。

 消されていた記憶が蘇り、私が綾瀬夕映であること。
 麻帆良学園の生徒であること、祖父が死んでしまったときに散々泣いたこと、
 のどかと親友になったこと、ネギ先生に好意を抱いたこと、ネギ先生を嫌いになったこと、
 春原さんに騙されたこと、春原さんに辱められたこと……春原さんに愛されたこと。

 ありとあらゆる感情に突き立てられ、目からは涙が止まらなくなっていました。

「記憶、戻ったか? 俺とゆえの愛のパワーで」
「も、戻っていません。あなたと私の間に、愛なんて、ありませんから」

 咄嗟に嘘をつきました。
 ……二つも嘘をつきました。

「んー、そうか、じゃあもっと凄いことをしないと、な」

 春原さんは私をベッドに横たわらせました。
 春原さんは私に覆い被さると、耳元でそっとつぶやきました。

「お前の記憶が消されていることに気づいたとき、割と本気で腹を立てたよ。
 コレットを本当に殺そうかと思うくらいに、な」
「……」

 また顔が真っ赤になるのがわかるです。
 春原さんに悟られないように目をそらしましたが、こんな体勢ですから、きっと無駄でしょう。

「す、好きにしたらいいです」

 そう、かつて私が春原さんに言った台詞です。
 ただ、そのときの台詞とは、意味が百八十度違う意味で、今は言いました。

「じゃあ、お言葉に甘えて」