武闘会のあれ

 刹那は完全に油断していた。
 目の前の相手は、人並み外れた運動能力を持っているだけと言っていい存在。
 言うなれば一般人に毛が生えたそうなものであり、同じく一般人である古菲と戦っても負けるだろうと目算を付けていた。
 実際その通りであったのだが、とんだ大番狂わせが混入してきた。

 舞台脇で試合を見物している、クウネル・サンダースがアスナにテレパシーを送り、ある特殊な技法を教えたのだ。
 身体能力が『人並み外れた』を超え、裏世界での戦士として立派に戦えることのできる領域に突入する。
 それでも尚、刹那の方が有利であるはずだった。
 刹那には経験の差があり、神鳴流剣士としての技がある。
 例えアスナであったとしても、負けはない……。

 しかしそれは油断していないときの話。
 今は、一般人の目が多く存在する武道大会。
 刃物の使用は禁止であり、愛刀の夕凪は使えず、代わりに持っているのは気で強化したモップ。
 神鳴流の技も繰り出すことができず、アスナの急な動きの変動について行けない。

 気が付いたときには、地面にひっくり返されていたときだった。
 モップの攻撃をかわされ、がら空きになったところに、アスナが右肩でタックルをぶつけてくる。
 踏ん張る力も抜けて、呆気なく地面を倒され、直ぐ頭の横にはアスナの持つ『ハマノツルギ』が。

 寸止めされていなかったら。
 もし得物がハリセンではなく刃物であったら。

 刹那が起きあがる前に、トドメの一撃がきた。
 ハマノツルギではなく、アスナの左の拳が、地面に倒れた刹那の腹に打ち下ろされる。
 避けることも防御することも適わず、実に綺麗に決まった。

「かっ……はっ……」

 気で体自身の防御力を上げていても、アスナのマジックキャンセルスキルの前にはさして意味はなさない。
 憐れ、刹那は白目を剥いて、その場で気絶した。

 

 

 


 刹那が気絶から戻ったとき、そこにはアスナはおらず、武道大会会場でもなかった。
 石造りの暗い部屋……。
 じめじめとした空気が澱んでいる、とても気分の悪いところだった。

 なぜ、このようなところに……と考える。
 ぼんやりとした頭で、まずは試合の結果はどうなったかを知りたくなった。
 が、次の瞬間、愕然とした。

 手首が頭の後ろで拘束されて、動かそうとするたびに、じゃらじゃらと鉄の鎖が冷たい音を鳴らす。
 足も同じような状態で、ほとんど身動きが取れない状態だった。

「起きたか、刹那……」

 不意にエヴァンジェリンの声が響いた。
 顔を上げて見てみると、暗い部屋に唯一ある扉の前に浮かぶエヴァンジェリンのシルエットが。

 刹那は咄嗟に声をかけようとして戸惑った。
 エヴァンジェリンの纏う雰囲気がいつもとは違う。
 いつもは冷静さを持ち、冷たい刃物のような印象を受けるエヴァンジェリンが、どことなく怒りを孕んでいるように見えた。

「え、エヴァンジェリン……さん?」
「神楽坂明日菜に負けた気分はどうだ?」

 ああ、負けたんだ、と刹那は思った。
 記憶の途絶箇所が、鳩尾に拳を打ち込まれていたところであり、おおよその見当はついていた。
 しかし、実際に言われるとショックは隠しきれない。
 長年鍛錬を組んできた自分が、まだ裏の世界に足を踏み入れてから一年も経っていない人間に負けた、ということもあるが、
 油断をし、アスナに全力で応えられなかったという事が刹那の気分を重くさせていた。

 エヴァンジェリンはそんな刹那を見て、ふん、と息を吐いた。

「神楽坂明日菜は私が倒したよ」
「そう……ですか」

 トーナメントによると、アスナと次に当たる相手はエヴァンジェリンだった。
 至極当然の結果。
 返答する刹那を、エヴァンジェリンは鋭い視線を浴びせかけた。

「貴様が負けなどするから……何故、何故あの相手に、開始五秒でけりを付けなかった!」
「はい?」
「屈辱だッ! 永い年月を生きてきたが、あのときほど屈辱に思ったことはそうはない……」
「え……えっと、一体どういうこと、ですか?」

 状況を飲み込めぬ刹那。
 エヴァンジェリンはそれに対し、唇を噛みしめて、手を震わせる。

「貴様が負けなどするから……猫耳にスクール水着、その上にメガネとセーラー服というわけのわからん格好で戦わされたのだッ!」

 そう。
 エヴァンジェリンは、クウネル・サンダースと刹那とアスナどちらが勝つかどうかで賭けをし、見事に負けたのだ。
 支払われたチップは大きかった。
 真祖の吸血鬼のプライド、それを……ほとんど全て。

 幸いなことに、エヴァが賭けに勝ったときに得られるサウザンドマスターの情報は得ることができた。
 しかし、エヴァのペナルティは消えず、頭部には猫耳、顔にはメガネ、
 体にはスクール水着、その上にセーラー服という格好で続きの試合に出場した。

 まさに地獄だった。
 四方八方から降り注ぐ好奇のまなざし。
 どう見ても、いい気持ちになれるようなものではなく、極めて不快なものだった。
 それでも今回だけ、と我慢をして、開始五秒と経たずにアスナを撃退し、早々と立ち去った。

 しかし、それだけでは済まず、珍奇奇天烈な格好は何者かに撮影されて、広大に広がるインターネットの世界に散らばってしまった。
 エヴァンジェリンがそれを茶々丸から聞き、半ば八つ当たり気味で刹那を攫った。

 自分の受けた辱めを、原因である刹那へとぶつけようとしたのだ。
 現在刹那の格好は、エヴァンジェリンが試合時に着ていたコスチュームから、セーラー服とメガネを外したもの。
 『せつな』とひらがなで書かれたスクール水着と、黒髪に合う色のネコミミ。
 そして、黒い靴下。

「え? ……え?」

 そんな事情は全く知らず、状況が飲み込めない刹那。
 エヴァンジェリンは、くくく、と喉の奥から声を出すように笑い……手元にあった鞭を握った。

 鞭は派手な音を立てる。
 九尾の狐とよばれるそれは、家畜や奴隷を鞭打つためのものではなく……SM用のもの。
 音は派手だが、それほど痛くないものであるが、エヴァが持つとなるとまた話は別。
 何百年と生きている中、この鞭を使ったことが多く、心得も承知している。

 派手な音をならしつつ、エヴァンジェリンは刹那に近寄っていく。
 刹那は異様な光景に目を点にしながら、そのままされるがままに。

「ひゃうッ!」

 刹那の背中に、鞭は振り下ろされた。
 焼けるような痛みにのけぞると、鎖がじゃらじゃらと音を立てる。

「な、何を……」

 刹那が口を開いた瞬間、エヴァンジェリンは鞭を握ったまま、側の机の上においてあったものを取った。
 そのまま、開かれた口にギャグを噛ませ、実にスムーズに紐を頭の後ろに回して、きっちりと縛る。

「少し、黙っていろ」

 黙っていろ、と言われる前に、黙らざるを得なかった。
 抗議の声を上げようとしても、くぐもったうめき声にしかならない。

 首を上げ、鞭を片手に弄ぶエヴァンジェリンを見上げる刹那。
 エヴァンジェリンには嗜虐的な笑みが浮かび、顔がやや上気している。

「私に恥をかかせた報い……体で払ってもらうぞ……ククク」

 


 刹那にとってとても長く、エヴァンジェリンにとってとても短く感じられた三十分だった。
 その間、一分と間が開くことなく、鞭の鋭い音が、暗く狭い部屋に響いていた。
 刹那の噛んでいるギャグボールの隙間から、涎が溢れ出している。

 エヴァンジェリンの鞭捌きは実に巧みだった。
 刹那の体に汗でぴったりと張り付いたスクール水着には裂け目一つ作らずに、鞭撻している。
 今や刹那は、鞭が音を立てるたびに、憐れなパブロフの犬よろしく身を縮ませ、恐怖するようになっていた。
 そんな姿を見て、エヴァンジェリンは満足そうに舌を出して、自分の口元を舐める。
 刹那は脅え、背後に立つエヴァンジェリンの気配を探り、一挙一動に反応する始末。

「平均的な人間が、生まれてから死ぬまで出会う人間の数というのは、およそ2000人ほどと言われている。
 母親、父親、産婆、医師、と数えていき、息を引き取るときまでカウントをした数がそれらしい。
 無論、私は人間よりも数倍の時間を生きている。出会ってきた人間も2000などという数では収まらない。
 数千、数万……下手をしたらそれ以上の人間と顔を合わせ、それを見合わせている」

 エヴァンジェリンはゆっくりとした口調で語り始めた。

「桜咲刹那。当然、お前のような人種とも多く出会ってきた。
 生まれにコンプレックスを抱き、自分を殺して生きていくというのも……。
 しかもそれは珍しいことではない。
 今は多少改善されてきているが、数百年前など、それはもうどこへ行っても見られるようなものだった」

 刹那は微かにエヴァンジェリンの言葉に耳を傾けた。
 自分の最も触れられたくない部位であり、しかし、それを克服できるものならばしたいと強く願っている部位。
 真祖の吸血鬼であり、経験も多く積んでいるエヴァンジェリンの言葉に、救いがあるのではないか、と。
 しかし、エヴァンジェリンは刹那に救いをかけるような気は毛頭無かった。
 それどころか、更に追いつめようとするべき言葉を投げかける。

「私を消滅させようとやってくる、思い上がった馬鹿にもそういった人間は多かったよ。
 ……最初の数年は後腐れもなく消し飛ばしてやったが、手慰みに嬲ったことも多かった。
 その中でも、お前のようなタイプが一番相手にしていて楽しかったぞ」

 エヴァンジェリンはゆっくりと足を動かして、石の床を踏みしめた。
 鞭をふるうことによって呼び起こされた官能が体を熱くし、床のひんやりとした冷たさがほんの少しだけ冷ます。
 口の中にどっと唾液が溢れ、粘ついた唇を再度舌で舐める。

 まるで歌うような滑らかさで、エヴァンジェリンは言った。

「桜咲刹那。お前はマゾだ」

 刹那の目の前で仁王立ちするエヴァンジェリン。
 下から見上げる刹那の視点では、実に愉快そうな表情をうかべているように見える。
 勿論見えるだけではなく、エヴァンジェリンは実に愉快な気分に浸っていた。

「一皮剥いたときに現れる本性はどの程度のものなのか……実に楽しみだ」

 エヴァンジェリンはぴしと指を弾いた。
 すると入り口から足音が響き、二つの人影が近寄ってくる。

 刹那にその人影の正体に見覚えがあった。

「ちゃ、茶々丸さん……」
「……の姉妹と言ったところか。戦闘能力は省いてあるが、同型機だ。
 無論、頭の中身は茶々丸とは違って、空っぽだが」

 エヴァンジェリンが首を少し揺さぶって、茶々丸の姉妹機に指示を下す。
 二体のガイノイドは、刹那の足の拘束を外した。
 加えて両手の拘束……手錠は解かず、鎖だけを外す。

 そしてそのまま、刹那の脇を掴むとそのまま立たせた。
 エヴァンジェリンは、刹那が二本足で立っていることを確かめると、暗闇の方へと足を向けた。

 ぎぃー、と軋んだ音を立てて、更に奥へと繋がる扉を開く。
 扉の向こうは真っ暗闇。
 光るものは何もなく、どれほど瞳孔が開いても、数センチ先も見えない暗闇。
 エヴァンジェリンはその暗闇の部屋の中へと、ためらいもなく入っていく。

 そしてその後を、両脇をガイノイドに固定されて、引きずるようについていく刹那が。

「野太刀というものは、長い日本刀だな。馬上でも振るえる刀として作られたものと聞く」

 暗闇の中、エヴァンジェリンの声だけが響いていた。
 背後の扉は閉められて、まるで質量があるかのような重苦しい暗闇が広がっている。

「桜咲刹那……私から貴様に馬をくれてやろう」

 野太刀というものは確かに馬上でも振るえる刀として、長い刀身を持っている。
 しかし、刹那の夕凪とはそれとは少し違う事情で持たれていた。

 神鳴流は退魔の剣術。
 当然、相手にするのは人間よりも遙かに頑丈で大きい悪鬼魍魎。
 神鳴流は武器を選ばず……だが、常備しているものが太く重いものであれば、色々と役に立つ。
 もちろん、エヴァンジェリンがそこらへんの事情を知らないわけではない。

 恐らくわざと言っているのだろう、ということは刹那にも理解できたが、
 一体何をせんとしようとしているのかは見当もつかなかった。
 ただわかることは、どんなことをしようが、決してそれが幸運なことではないということだけだった。

 そしてそれを自覚し、現実とは到底繋がることのない貧弱な想像をするだけで、刹那の腰辺りに甘い刺激が走った。

『桜咲刹那。お前はマゾだ』

 エヴァンジェリンの声が頭の中でリフレインし続ける。
 その断定には何の根拠もない。
 まるで決めつけるような物言いではあったが、刹那はそれを完全に否定することはできなかった。

 鞭打たれ続けているうちに微かに感じた官能は、今もなお消すことの出来ない火となって体の奥に留まり続けている。

 

 チッと音が鳴ると、ぼんやりとした光が現れた。
 エヴァンジェリンの指先に、蒼い炎が灯り、辺りを照らしている。

「ほら、これだ……」

 辺りを包む青い光に、ぼうっと写し上げられるシルエット。
 当然、本物の馬ではない。
 四本の足を持ち、三角に角張った形状のもの……。
 まるで見るものを小馬鹿にしているかのように、馬のような首が付けられている。

 刹那は息を飲んだ。
 いくら裏の世界を知り、神鳴流剣士として訓練を受けてきた刹那といえど、まだ中学生。
 目の前にある、馬をかたどった拷問具のことは見たことも聞いたこともない。
 ただ、その形状から一体どのように使うのかは容易に察せられる。
 そのまま逃げだそうと、体をねじろうとしたが、両脇に控えているガイノイドはがっちり捕まえている。

「そんな遠慮するな……早速乗ってみろ」

 ただ捕らえているだけではない。
 ガイノイド達は、その冷たい無機質な手で刹那を引っ張る。

「や、やぁ……」

 足の先に全力を篭めて、引っ張られまいと踏ん張る刹那。
 しかし、当然ながら力では適わない。
 あっという間に、足を掬われ、体を持ち上げられる。

「いやぁッ……」

 エヴァンジェリンの最後の慈悲は、木馬の背に座らせるスピードをゆっくりにしたことだった。
 角度の鋭い三角が、刹那の足と足の間の部位に食い込む。

「あッ……あああッ……」

 自重によって負荷は段々とかかる。
 足を引っかけるところはなく、膝で側面の滑らかな板で踏ん張るしか刹那の取れる方法はない。
 体を揺さぶって木馬から落ちる、ということも抵抗の一つとして残っているが、それをしてエヴァンジェリンが良い顔をするとは思えない。
 確実に、今この段階での責めよりも更に苦痛と恥辱にまみれたことをされるのだろう、と。

 もし、今の刹那が修学旅行前の刹那であったのならば。
 それでも構わず、必死に抵抗しただろう。
 しかし今の刹那は、エヴァンジェリンという絶対的強者に恭順する存在になっていた。
 ただ拷問具の上で苦痛に耐え、震え、暗闇の中でたたずむエヴァンジェリンの顔色だけを伺っていた。

 エヴァンジェリンはエヴァンジェリンでそんな刹那を見て、苦々しく思っていた。
 刹那はもう少し粘ると予測しており、あまりの腑抜けぶりに半ばあきれてもいる。

 狗めが、と内心舌打ちをしながら、打ち立てていた計画の変更をする。
 永い年月を生きてきた経験で、まだ味わったことのない快楽……。
 ほとんどやり尽くした気もし、しかしまだまだやっていないことが多い気もする。

 あーでもない、こーでもないと考えるエヴァンジェリン。
 しかし中々イントネーションはまとまらない。

 何故刹那は腑抜けてしまったのか。
 以前の刹那には触れれば切れるような抜き身の刀のような雰囲気があった。
 しかし、最近では柔和で明るくなってきている。

 鞘が出来たからか、エヴァンジェリンは親指の爪を噛んで考えた。
 鞘とは言うまでもなく、近衛木乃香。
 関西呪術協会の長を父に、関東魔法協会の長を祖父に持つ娘。

 そこだ、と。

 エヴァンジェリンの頭にインスピレーションが駆けめぐり、次々と計画を組み立てる部品が繋がっていく。

「刹那……」
「は……はひぃ……」

 ぷるぷると震えている刹那を見る。
 卑しくも、木馬の背に染みが広がっている。

 まだ五分も経たぬのにこの順応力。
 ある意味、痛みを快楽に変換する感じやすさは、今まで扱ってきた相手よりも群を抜いて優れているようだった。

「私は少し出てくる、それまでじっくり乗馬を楽しんでくれ」

 明らかに刹那は安堵の表情を浮かべた。
 もちろん、その間に攻めの手をそのままにしていくつもりはない。
 ぱちんと指を弾くと、刹那の乗っている木馬が細かく振動しはじめた。

「ひっ、あ、ああああああ……ッ!」

 当然、刹那の股間を伝わる刺激は今までの比ではない。
 苦悶とも悦楽とも取れぬ声が口から漏れ始める。

「走れぬ馬は馬ではない……そうだよな、刹那」

 三角木馬は、その四本の足を曲げた。
 あろうことか、足を前に突き出して、歩き始めたのだ。
 上下運動の他に後ろへの慣性が働き、それがまた刹那の秘部を責めさいなむ。

「と、とめてくださいッ」
「大丈夫、振り落とされるようなスピードで動くことはない。
 もし落ちても、茶々丸の妹たちが再び乗せてくれる。
 二度と落ちないように、今度は両足に重しを吊してな」

 エヴァンジェリンは魔法の灯火を消した。
 再び部屋は真っ暗闇になる。
 真祖の吸血鬼でもテクノロジーの塊でもない刹那は、完全に視覚を断たれた。

 何があるのか全く分からない闇の中、両手はふさがれ、足は痺れかけている不安定な体勢で、足で歩く三角木馬に乗っている。
 相当な恐怖心が煽られる。

「三十分くらいしたら戻ってくる。素敵なゲストを連れて、な」

 部屋の中からエヴァンジェリンの気配が消えた。
 恐らく影を用いたテレポートを使ったのだろう。

 今ならひょっとして逃げられるかも知れない……しかし刹那はもはやそのことを思いつくことが出来ない状態になっていた。


 暗闇の部屋では、刹那のくぐもった声と、三角木馬が足を曲げるたびに立てる軋むような音だけが響いていた。