「あ、あの……ぼ、ぼぼぼぼ、僕、一体どうなるんでしょうか?」
勇気を出して、震えながらフェリスさんに聞いてみた。
フェリスさんはエルフ族……二百年近く人間と交易を断っていた亜人族の使いだ。
エルフ族の工芸品は素晴らしく、半魔法生物であるためにエルフ製の魔法具は
人間の作るどんなものよりも優れている。
とはいえ、交易されていないために、それらは滅多に残ってはいない。
何故エルフ族は人間と交易を断ったのか……あんまり詳しいことは知らないけれど、
やっぱりつまらないいさかいが元だったらしい。
エルフ族というのは、二百年も交流がないためにどんな生き物なのかあまりわかっていない。
一説によると、人を食べる、だなんて言われている。
だから、エルフ族の住んでいるとされる森の近くの村では、言うことを聞かない子どもに
「言うこと聞かないとエルフの森においてくよ」と言って、しつける風習がある。
それが本当かどうかは知らないけれど、今はそれが本当でないことを切に切に願ってる。
僕は、そのエルフの住む森に面する土地を治める領主様の小姓として働いていた。
普通の小姓として……幸い、領主様に男色の気はなかったから、本当にごく普通の小姓として
働いていたところに、そのエルフ族の使い「フェリス」さんが来たんだ。
フェリスさんは、何の知らせもなく現れて、一時は領主様の屋敷が騒然となり、
領主様が慌てつつフェリスさんをもてなした。
実に二百年近くに行われたエルフと人間との交流で、領主様とフェリスさんは二人っきりで何かを話していた。
それが三十分ほど続いたのち、僕は何故かフェリスさんに連れられてエルフの住む森へと連れて行かれてしまった。
もう、ビクビク。
領主様は領主様で、僕が連れられるときに「抵抗するんじゃないぞ」とか言ってたし、
フェリスさんは美人だけど何も教えてくれずに、手を引っ張るだけだし。
ひょっとして、僕、生け贄にされちゃったのかなあ、なんて思っているわけで。
うう、嫌だよう……食べられるのは嫌だよう……お母さん……。
「ちょっと待っていろ」
「え? は、はい……」
突然、フェリスさんは掴んでいた僕の手を離し、背を向けて両手を天にかざして、何かぶつぶつ言い始めた。
何をしているんだろう……。
フェリスさんはその行為に熱中しているようで、ちょっとやそっとの音を立てても気付かなさそうだった。
……今が最後のチャンスじゃないだろうか?
ゆっくりゆっくり後ずさりし、距離を取る。
大丈夫だよね?
うん、大丈夫だ……。
振り返って、そろりそろりと足を進める。
「どこへ行くつもりだ?」
「は、はうっ!」
フェリスさんは、まだあの宇宙への交信なんかみたいのをやり続けながら、口を開いた。
熱心にやっているけれど、僕の気配はきっちり掴んでいたみたいだ。
「あ、あはは、ちょ、ちょっとおトイレに行こうかと」
咄嗟に苦しい言い訳が口から出る。
ば、バレちゃったかな?
あああ、最悪だ。
エルフは約束を違えるものは決して許しはしないっておばあちゃんが言ってた。
どんな風に痛めつけられちゃうのかな……皮を剥がれちゃったりするのかな。
いやだなあ、痛そうだなあ、死にたくないなあ……。
よく考えたら、逃げたって僕に帰るところなんてないんだよね。
領主様は僕をエルフの生け贄として捧げたんだし、
お父さん、お母さんのところは……
そもそも口減らしのために領主様のところへ小姓として僕を行かせたんだもの、
暖かく迎えられるわけがない。
……。
なんだか目の前が潤んできた。
ああ、もうちょっと生きたかったなあ。
もっとおいしいもの食べて、美人じゃなくていいから気だてのいいお母さんみたいな子と仲良くなって、
お父さんみたいに働いて、おじいちゃんみたいに孫の顔を見て喜びたかった。
こんなところでエルフの生け贄にされて、一生を終えるなんて、あんまりだよ。
「もう少し待っていろ」
「はい……」
でも、逃げたところで帰る場所もないし、凍死するか餓死するか……わからないけど、
さして変わらない結末を迎えることは目に見えてる。
どうせ助からないんなら、潔くしよう。
フェリスさんがゆっくり手を下げた。
肩が上下に揺れて、深呼吸をしていることが見て取れる。
「さあ来い」
フェリスさんが僕の方に手を伸ばした。
僕をイケニエとして連れて行くエルフは、とても美しかった。
腰まで伸びた、なめらかな金髪の中から、ぴょんととがった耳が覗いている。
その肌は、使い古されたつまらない形容表現をさせてもらうことが許されるのならば、
まだ何者も踏み入れていない雪原のようだった。
エルフ族らしく、長身で痩せ形……とはいえ、細身でありつつも、女性的特徴はありすぎるほどある。
文字通り人間離れしているほど形が整っている顔は、十人中八人はフェリスさんのことを美人だ、と言うだろう。
ちなみに、二人のうち一人が男の同性愛者で、もう片方がめくらだ。
……まるで、天国に誘う美しい天使のようだった。
残念にも、フェリスさんが『天国に誘う』『美しい』『天使』のうち違う部分は、
『天使』というところが『エルフ』というところだけなことだろう。
フェリスさんの手をおずおずと掴む。
フェリスさんの手はとっても柔らかくて、指が細かった。
けれど華奢ではなく、がっちりと僕の手を掴んでいる。
やや強い力で、僕はフェリスさんに半ば引きずられるように、更に森深くへと進んでいった。
やがて、エルフの国についた。
どちらの方向を見ても、木の上にある小屋が目に入る。
エルフ達は、僕ら人間とは違い、地面にレンガの家を建てず、その小屋に住んでいるらしい。
村に伝わる伝承通りだ。
いくつかの小屋の中から、興味津々と言った様子のエルフが顔を出してきた。
みんな、美人揃いで、人間で言う男はいない。
これも伝承通り。
小屋の入り口からこちらを覗いているエルフ達は、こそこそと何かを話し合い、
僕に向かって熱烈な視線を投げかけてくる。
あれはきっとやっぱり、蛇が蛙を見たり、ゲンゴロウがメダカを見たり、
僕が蜂蜜たっぷりのホットケーキを見たりするときのと同じ意味合いを持った視線なんだろう。
エルフの国や、そこに住むエルフ達は、全く村に伝わる伝承通りだった。
それこそ僕の想像と、寸分違わないほど。
となると、やっぱりエルフ達が人間を食べる、という伝承もまた真実なんだろう。
そして、何の権力も技能も持たない人間がエルフの国に連れてこられたということは……やっぱり……。
「どうした? 顔色が悪いな」
「いえ……だいじょうぶです……」
もう逃げられないことはわかっている。
逃げたって一分もしないうちに、たちまちエルフ達に囲まれてしまうだろう。
後悔したってしょうがない……。
「本当に大丈夫か?」
「だい、じょぶです……」
今にも気絶してしまいそうだけれど、僕は腹に力を込めて意識を強く持った。
気絶しても事態が好転するわけじゃないし、むやみやたらに怖がっても同様だ。
ここは一人間として、人間の根性を見せてエルフ達に食われてやろう。
死を目前にして一歩も退かないところを見せたら、
ひょっとしたらエルフ達はこれから他の人間を食べるのをやめてくれるかもしれない。
馬鹿みたいな願いだけど、こんなことを考えないとやってられない。
フェリスさんは何度も何度も声をかけてくれたけど、僕はそれを振り払って、
よたよたフェリスさんの後をついていった。
やがて、エルフの森の奥の奥に到着した。
そこには、普通の小屋とは違う、地面に立った建築物がそびえていた。
宮殿というべきなのか、少し規模が違いすぎるというか。
あまり街の方に出たことがない僕でも、自分の国の首都には行ったことがある。
領主様が色々と仕事で出かけるときについていったんだ。
そこで自分の国の王様が住む建物を見たんだけれど……今目の前にあるのは規模が違う。
どっちが優れているかなんて比べるのがバカバカしくなるほどの細かい細工が壁一面に施されている。
確かに金やら銀を使っている部分は、人間の王様の宮殿よりも少ないけれど、
それにもまして芸術品の多さ。
エルフはこういったことも得意だとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。
目がちかちかするほど装飾品の数が多い。
もうすぐ死ぬというのに、僕はその宮殿に見惚れていた。
フェリスさんはその宮殿の中に僕をつれていった。
なんであんな細々とした細工を施しているのか、
なんであんな馬鹿みたいな手間をかけてこの宮殿を造ったのか、
すごすぎて、逆に不思議に思うほどだったが、中はそれとはまた別種の、
そして外観よりももっと不思議さがあった。
歩かなくても進める、勝手に動く床。
モデルになった生き物はなんだかよくわからないけれど、とにかくわけのわからない美しさを持った彫刻が、
宙に浮いて、せこせこあちらこちらに動いているのは序の口。
確かに、美しいと言えるけれど、発光源が一体なんなのかわからない、もやのような光があったり、
とにかく、なんでもかんでも美しいものだらけだったけれど、
出自が、例え小姓というほとんど教養とは無縁の存在の頭脳であっても、全く持って判別しがたいものだらけだった。
言うならば、美しいものをより集めたゴーストハウス、というところだろう。
「……」
そして、ついに大親玉に出くわした。
巨大な緑色の宝石を削って作ったんだろう玉座に座り、ものものしい杖を持った女性がいた。
なんかもう、うんざりするほど宮殿の中を歩かされ、
同時にうんざりするほどわけのわからないものを見せられた僕は精神がすりきれていた。
玉座に座っているエルフは、今までのエルフとは一線を画した美貌を持っていたけれど、
これから死にゆく人間にとって、その美しさを見て興奮を覚えるものなんだろうか?
少なくとも、僕はもうそのことをうっちゃけていた。
「エルフェイムへようこそ」
エルフェイムとはこの宮殿のことを言うんだろう。
もしくは、エルフの国全体を指すのか……。
どちらかだかは知らないが、エルフの国の全てはこの宮殿にあるように見えるから、
どちらでもさして大きな違いはないだろう。
等々、考察していた僕は、エルフの大親玉に何も返事を返さなかった。
「そなたは緊張しているようだな。
人間がかようなところに連れてこられて無理もあるまい、
そなたを余の来賓として歓待することを、ここに誓おう」
僕が何も言葉を返さなかったことを、緊張、ととったらしい。
本当は、似て異なる『諦観』だったんだけれど。
それにしてもエルフの大親玉は、中々諧謔に富んだ人……もといエルフらしい。
「フェリス、よく使いとして責を果たしてくれた、下がって良いぞ」
フェリスさんは二言三言何か返事をした後、僕を置いて宮殿の床を歩いていった。
僕はエルフの大親玉の前にたった一人で残された。
「何故……そなたがここに連れてこられたのか、まだ理由は知るまいな?」
「ええ、まあ……僕がいささか田舎の領主の小姓にしてはキュートだからでしょうか」
エルフの大親玉は、特に表情を変えずにこう答えた。
「いかにも」
包み隠さないという意思表示なのか、それとも僕を馬鹿にしているのか。
エルフの、特に大親玉の考えていることが、僕の理解の範疇に収まっているとは思えないから、
それ以外の意味があるのかもしれない。
けれど、所詮、それは僕の理解の超越しているので、僕が理解できるわけがない。
「もういいです。何も言いたいことはありません。
煮るなり焼くなり好きにしてください。
できることならば、なるべく痛くないように殺してくれた後に頼めればいいんですが」
「殺す? 一体何を言うておるのじゃ」
「僕はイケニエなんでしょう?
わかってます、何も抵抗しません。
できれば痛くない方法でやって欲しいですが、
僕の犠牲で、故郷が守れるならば、喜んで身を捧げましょう」
「……なにやら、誤解しておるようじゃな」
「誤解ならこの場でスキップしてみせますよ」
「ならば、拝見しよう。そなたのスキップを」
「……」
僕はとりあえずその場で、妙な踊りを、足だけで行った。
ぱたぱたと虚しく音が響くだけだった。
「気が済んだかの」
「それなりに」
「うむ、よろしい」
全く意図が読めない。
一体、何がさせたいんだ。
「イケニエ……とは誰が言ったのか?」
「おばあちゃん」
「……?」
「僕のおばあちゃんです、僕の子どものころに、いつも夜寝る前に話をしてくれました、あなたたちのね」
「ほう?」
「エルフは人間を食べる、って」
「何をたわけたことを、余や、余の国の民が人間を食して一体何の得がある」
「……え?」
「一体どういういきさつでそういった話が出てきたのかは知らぬが、くだらぬ俗説であろ。
余の国の歴史をひもといてみても、人間を食した記憶は一切存在せぬ」
とりあえずスキップした。
「それは申し訳ありません、さきほどから無礼な物言いを……てっきり誤解をしていました」
「別に構わぬ。そなたを、理由を知らせずにここへ連れてこさせたことも無礼な行為であるからの。
誤解を生じさせるのも無理ないこと。
寿命の短い人間が、余らをどう見ているのかも、正直興味はないでの」
「では、何故わたくしなどをこの宮殿にお呼びになられたのでしょう?
わたくしは技能も教養もない、ただの人間、エルフの女王たるあなた様に拝謁できる身分でありませんが」
「ふむ……それはだな」
エルフのおおおやぶ……いや、女王は言いよどんだ。
「有り体に、包み隠さず、かつ品のない言い方をすれば……種馬じゃ」
最初は何を言っているのかよくわからなかった。
どういう意味なのか、タネウマ?
そういえば、聞いたことがある。
東方にあるとある国に、タ・ネウマという格闘術があるんだとか。
どういうものかは知らないけれど、なにやら世界最強の……。
「技能や教養も、初めから期待しておらぬ。
まあ、今後は教養だけはつけてもらわねばならぬが、それもこちらで手配する故、心配することはない」
「ちょ、ちょっと待ってください、種馬ってどういうことですか?」
「余の国の民とつがい、子を成せ」
「僕は人間です、エルフと種族が違う。子どもなんてできるわけないじゃないですか」
エルフと人間に子どもができることは、犬と猫に子どもができるようなものだ。
「子どもができぬ人間など余の住まいに呼ばぬ。
そなたが、余の国の民達に子どもを孕ませることのできる人間だから呼んだのだ」
「ですから、僕じゃできませんって」
「何故、出来ぬと思う? 余が他の誰でもない、そなたをここへ連れてきた理由は一体何故だと思う?」
「わかりませんよ、僕とあなた達は種族が違うわけですから……」
「種族、そうじゃな、種族が、違う。
しかし、種族の壁を飛び越えることのできる人間がいない、と何故言える?」
「んな、馬鹿な……そんなことできるはずがない」
「だから、そなたはもう少し頭蓋骨の中にあるものを使ってみたらどうだね。
全てのエルフを統べる余が、そのことのできぬ人間をここへ招くかどうか、考えてみやれ」
そう言われてしまうと言葉が詰まる。
「あまりにも突飛な話で、到底信じられません」
「では信じろ」
「僕は、鹿の絵を見て、馬と答えることはできません」
「……ッ」
エルフの女王は顔を一瞬だけ歪めた。
……ちょっと調子に乗りすぎてしまったようだ。
なんでそんなことを言ってしまったのか分からないが、言ってしまった以上しょうがない。
「まあよい。
だが、余はそなたに余の国の民を孕ませることができる能力を持っている、
という証明を口上ですることはいくら余とて難しい。
余の国の長老にして最大の予言者がそなたのことを予言したのであるが、人間であるそなたはそれだけでは信じまい」
「あ、いや、申し訳ありません、いいんです、聡明なるエルフの女王がおっしゃるのならば、きっとそうであると……」
「口上で説明することができぬのならば、実践して証明すればよい。
言うならば、余とつがい、余が孕めばそなたも文句はなかろ」
「……は?」
「近こうよれ、愛いやつ」
足場が勝手に動き出し、僕の意を全く介さずにエルフの女王の目の前に移動してしまった。
エルフの女王は、目を細め、口の端がクイッと上がり、なにやら楽しんでいるようだった。
「緊張しておるのかえ?」
「あ、いえ……」
白状すると、僕はまだそういった経験を持ったことがなかった。
もちろん、知識として知っているし、領主様が奥様と交わっているところを見たこともある。
精通があるから、エルフの女王の言っていることが本当だとすれば、子どもだって作ることができる。
けど、まあ初めてには初めてのときのドキドキが切り離すことができない。
「初心なやつよ……余が優しくリードしてやるからの、おぬしは体を楽にして、なされるがままにしやれ」
「は、はい」
「では、目をつぶれ」
エルフの女王は僕の顎を掴み、軽い力で引き寄せた。
目をつぶっているので詳細はわからないが、エルフの女王の顔がものすごく近いところにある気配がする。
唇に何かが触れた。
それは、柔らかく、暖かいものだった。
自分が置かれた状況を、再び思考の彼方で把握しながら、これから起こることに対して色々と考えていた。
胸の動悸が激しくなれど、悪くない。
ああ、僕は経験がない。
機会も相手も恵まれなかったし、まだ年齢は年頃というにはちょっと早すぎた。
恋は……まあ、強いて言えばフェリスさんがそうかもしれなかったけれど、ちょっと特殊な状況だったから……。
エルフの女王の唇が離れた。
ぼんやりと目の前が見えてくる。
神々しい美貌がだんだんと明らかになっていく。
あまりにも美しいものを間近で見たせいか、眼球が痛くなってきた。
「……さて、もう下がって良いぞ」
……え?
「ふふ……子ども、か、余らは人間よりも子を早く産む。
三ヶ月もすれば、余の体格も、一目で孕んでいるということがわかるようになろう。
……なんじゃ? 不服そうな目をしてからに、余が子を産むのが気に入らないと申すか?」
「いえ……そんな、そんなことはないですよ、むしろ有り余る光栄というかなんというか……」
「はっきりせい、何故そのような目をしているのじゃ」
「いや……その……えっと、これだけ?」
エルフの女王は顔を真っ赤にさせて、僕の頬を殴った。
僕とあんまりかわらない身長しか持たない癖に、中々パワフルなパンチだった。
大体18メートルくらいある機械人形の操縦者よろしく、地面に倒れる僕。
殴ったね……。
「ば、馬鹿なこと申すでない! いくらそなたが選ばれし人間であるとはいえ、
子を成す儀式をそう余が何度も許すと思うたか」
いや、僕は、回数が少ないといったんじゃなくて、なんだ、その、濃度、みたいのを聞いたんですが。
とは言え、そんなことは口にできない。
エルフの女王はさっきよりももっともっと顔を赤く染めて、拳をぷるぷる振るわせているからだ。
あまりにも納得していない目つきと態度をしていたせいか、無言でもう一度殴られた。
殴ったね、二度も……親父にも殴られたこと……。
いや、あるな。毎日殴られた記憶がある。
「もう、下がってよい」
「は、はい……」
これ以上のことを言っても、おそらくは殴られるだけだろう、と思って素直に従った。
元来た道をしばらく歩いていると、フェリスさんが待っていた。
だだっ広い宮殿のせいか、無機物しか動く物を見ていなかった僕に、なんだか懐かしく思えるものだった。
「こちらに」
フェリスさんは必要なこと以外全く話さず、僕を誘導していった。
それから数ヶ月後。
僕は結構贅沢な暮らしを約束されていた。
宮殿の中に割り当てられた部屋は、奇妙なオブジェが溢れていて、
美しいけれど、気味が悪いことこの上なかったので、部屋を使うことは辞退させてもらった。
宮殿から歩いて三分もかからない場所に、木の上に乗っている小屋を建てて貰った。
これがまた、豪華というか、特権的なことらしい。
エルフの国では、エルフの女王の住む宮殿……エルフェイムしか地面に建造物を造ってはいけない規則だったらしい。
宗教上の決まりというか、僕、子どもだからよくわからないけど、まあ、そこらへんを無視して作ってもらった。
ただ、その代わりに、城にあった奇妙なオブジェの数個がその小屋に持ち込まれた。
金属のくせにうねうね動いて不気味だったから、持ち込まれたらすぐに物置にしまっちゃったけどね。
子どもを成す儀式は毎日行われた。
もちろん、エルフの女王様相手だけではなく、他の色んな人達と。
やっぱり、儀式は唇と唇を合わせるだけで、人間がやるようにはやらない。
最初のころは、とまどいがあったけれど、みんながみんな、キスすることで子どもができるって言っていた。
エルフは接吻だけで子どもができるのは、本当らしい。
けど、まだ一人も身ごもった子はいない。
それで、今日はあのエルフェイムの女王様のところへと呼ばれた。
「子どもが出来てもおかしくない時期なんじゃがのう」
エルフの女王様は、面白くなさげに自分のお腹をさすっていた。
「確かにそなたからは力を感じた。
子を成す儀式のとき、そなたと触れ、
エルフとしての直感がそなたに余らを孕ませる能力があることを察知したのじゃが。
うーむ、日に何度も儀式を行っているというのにまだ子どもが出来ぬとは……」
「はあ、すいません……」
「そなたが悪いわけではなかろ。子は天からの授かりものと言う。
こればかりは余が女王とて、どうしようもないことよ」
とは言え、僕は居心地の悪さを感じざるを得なかった。
エルフの女王は、子どもが出来たかどうか毎日気にしているらしい。
それなのに一向に身ごもる気配がない現在、女王の心情はどんなものなのか。
子どもができない夫婦というのを見たことがあるけれど、
自分がそれに似た立場になるなんて思いもしなかった。
女王は何度も何度も溜息をつき、自分の方が辛いだろうに僕のことばかり慰めていた。
流石にかわいそうと思った僕は、いつも以上に気合を入れて子を成す儀式を行った。
「もう下がってよいぞ」
唇に食いつかれたせいなのか、若干頬を染めながらエルフの女王は言った。
もっと一緒にいて、女王のことを気遣ってあげたかったけれど、
彼女にも職務があったし、僕は僕で他のエルフとも子を成す儀式をしなければならなかった。
僕は僕の小屋に戻った。
歩いている最中、ずうっとあれこれ考えていた。
やっぱり間違えてるんじゃなかろうか?
一体何がどうして、キスしただけで子どもが出来るものなんだろう。
穿った見方をしなければ、セックスをしない限り、子どもなんてできるはずがないと思う。
けど、僕なんかよりも数倍頭のいいエルフが間違っているとも思えない。
とはいえ、やっぱり……。
正直なところ、僕もそろそろ限界っぽかった。
あんなに美人に囲まれて、その全員に子どもを孕ませてもいいっていうのに、
キスしかできないというのはフラストレーションが溜まる。
「ふぅ……」
結局結論は何も出ないまま、小屋についてしまった。
「おや、おかえり」
「はい、ただいま」
……。
誰?
小屋の中には勝手に椅子に座って、おかしをばりばり食べている老婆がいた。
老婆なんて、この国に来て初めて見た。
この国では、少なくとも外見は若い女性しかいないと思っていたんだけど。
しかし、耳がとがっている以上エルフのようだ。
この国にいられるのは、僕を例外として、エルフしかいない。
「えっと、どなたさまで?」
「儂は長老じゃよ」
「ちょ……うろうですか」
「左様、まだエルフ族に男がいた時代に生きていた、この国でもっとも長寿なエルフじゃ。
故に長老とみなから呼ばれておる」
「はあ……」
老婆にしては歯が丈夫だ。
ちゃいろのまるいお菓子のようなものをバリバリかみ砕いている。
「まあ、そこに座りんしゃい」
「……どうも」
「子ども、できんようじゃのう」
「ええ……」
どこから出してきたのか、湯気の出ている緑色の液体をすすっている。
「儂が、おぬしにエルフを孕ませる能力があると予言したエルフなんじゃが……」
「そうだったんですか」
「おかしいのう、確かに間違っていないはずなんじゃが、なにゆえに子どもができんのか」
エルフの老婆はほうと熱い息を吐いた。
言っておいた方がいいのかな?
言っておいた方がいいよね。
「えっと、その、確認のために、聞いておきたいことがあるんですが……」
「何じゃね?」
「実は……」
僕はこの国に来てから、ずっと疑問に思っていたことを老婆に話した。
その返事が来る前に、老婆は口に含んでいた緑色の熱湯を僕の顔にふきかけてきた。
「キ、キスすれば子どもができると本気で思いこんでいるじゃと!?」
「ええ、まあ、そうみたいなんですけど……」
「あ、あまりにアフォすぎてこの儂でも予言できんかったわい……。
子どもは人間と同じような行為によってこの世に生を受けるのじゃ」
僕は手元にあったタオルで顔を拭いた。
「しかし、よく考えてみれば何もあの娘達に教えてこなかったんじゃのう」
「え?」
「おぬしは知らぬかもしれぬが、エルフには男がいたときがあったのじゃよ。
儂のような老けたエルフもな……じゃが、みんな死におった……。
長寿であるが故、清算されぬ内部の怨恨……大人達はみんな、みんな、同士で殺し合った。
悠久とも言える時の中で、恨み辛みは積もり、内輪もめで全滅するほどにもそれは膨らんでしもうた。
男は例え子どもでも皆殺し、殺されたエルフも霊魂になって殺したエルフを呪い殺す。
それを繰り返していくうちに、子どもの、女のエルフしか残らなかったんじゃ」
……。
「儂はまあ、エルフの中でも変わり者でな。
いや、自分でも言うのもなんなんじゃが、俗世から離れた暮らしをしておったからのう。
他のエルフとは関わりを持っておらんかったんじゃ。
故に、当時のエルフ達と同じく死ぬことはなかった。
それから、ずっとこの国におった女の子ども達の親代わりとして見守ってきたんじゃ」
「そう……なんですか」
「女しかおらぬ種は遅かれ早かれ絶滅するしか道はない。
そりゃそうじゃ、女だけでは子を残せない。
子を残せなければ、いくら長寿とはいえ、全てが死に絶える。
道はないのじゃが……しかし、天はエルフを見捨てなかったのか、
この上のない、絶滅を回避する手段を下さった」
老婆はまじまじと僕を見つめてきた。
「な、なんですか……」
「おぬしじゃよ。人間でありながらエルフを孕ませることのできる子種を持つ人間。
何故おぬしがこの世に現れたのかはわからぬが、おぬしはエルフという種を救う救世主なんじゃ。
おそらく自分で思っとるほどその実感はないじゃろうが、エルフの生存の道は、おぬしにかかっておる」
……今まで考えてなかったけど、血が混じったら厳密にはエルフとは言えないんじゃないだろうか?
そう考えたけど、すぐにその考えを打ち消した。
まあ、エルフとは言えない存在になっても、完全に血が絶えるよりかはいいだろう。
「じゃから、子作り頼むよ」
老婆はしわくちゃの手で、握り拳に人差し指と親指だけを立て、
僕の顔目掛け「バキューン」と効果音と共にウィンクした。
どういう意味があるのかは知らないけど、あまり嬉しくなかった。
「……オルリンピィク長老!」
不意に背後から声が聞こえた。フェリスさんだ。
開けっ放しにしておいたドアをくぐって、小屋の中に入り、膝をついた。
ここで終わり