エヴァ編 第3話

 顔にぼたぼたと何かがしたたり落ちてきた。
 その衝撃で目が覚め、ぎしぎしときしむ腕を動かし、顔にこびり付いていた何かを拭う。

「……まだ生きてたのか」
「オウ、ソロソロ起キロヤ」

 俺の顔にこびり付いていたのは血だった。
 正真正銘、俺自身の血だ。
 どうやら額を切ったらしい。
 額は、切ると血が大量に出る部位なので、あまり傷は深くないものの、顔は血まみれだった。

「死んだと思ったんだがなあ」
「ケケケ、オレモソウ思ッタゼ」

 さっき顔に落ちてきたものは、チャチャゼロの心遣いだった。
 水を含ませたスポンジを、俺の顔の上でぎゅっと絞って、水滴を落としたらしい。
 気絶している俺を起こすために、バケツで水をぶっかけなかったのは優しさと見るか、ただ単にそこまでの労力を費やしたくなかったのか、チャチャゼロの無 表情からは読み取れない。
 俺の予測では多分、後者だと思うが。



 なんでまた、俺がこんな目に遭っているかというと、エヴァンジェリンのスパルタ教育とやらのせいだ。
 あのアマは、俺が思っていた以上に操縦するのが難しい女だった。
 どんな風に鳴かせても、どんな風に屈服させても、三十分も休ませるとケロリと回復しやがる。
 真に警戒すべきだったのは、メンタルとフィジカルにおける回復力だったわけだ。

 昨夜は、エドのいにっきを使って、感度を人間の限界以上のものに設定して、何度も抱いた。
 そのときは確かに何度も何度も泣き噎びながら、俺に忠誠を誓った。
 ただ、それはそのときだけ。

 ちょっと休憩、とばかりに飲み物を取りに行って戻ってきたときには、乱れた髪を手櫛で解しながらベッドに座っていた。
 俺は、エヴァンジェリンのことを、人の皮を被った悪鬼羅刹だと思っている。
 実際に接触してからまだそれほど時間は経ってないが、その認識はさほど間違っていないと確信している。

 兎にも角にも、ヤツは全然堪えていなかった。
 一時、前後不覚状態に陥っていたのは確かだが、ほんの五分くらい休ませただけで、勝手に再起動してしまった。
 俺の手綱なんて呆気なく振り切られてしまい、修行とやらをやらされたわけだ。

「あれのどこが修行なのか、俺にはさっぱりわからないが……」
「ぼっこぼこニサレテタダケダシナー」

 ケケケ、と無表情で笑っているものの、チャチャゼロも嬉々として俺を痛めつけたヤツだ。
 何がどう修行になるのかわからないが、エヴァンジェリンは手加減はされているものの直撃すると割と本格的に死ぬ攻撃魔法を俺に向かってバンバン撃ってき た。

 最初に二、三発くらいは避けるなり、防御するなりで対処できるものの、それ以上になるとてんでダメだ。
 体勢を崩して、地面を転がると追撃からのマウントポジションを取られて、顔面を何発も殴られる。
 戦闘不能と判断されたら開放され、茶々丸の持ってきた超鈴音謹製の怪しげな薬を飲まされて、無理矢理回復させられる。
 そして最初からもう一度だ。

 基礎体力を作るということは、一度体を壊して、以前の体よりも強い体に作り直す、ということだ。
 ただ、こういう風に壊すのは、正直意味がないと思うんだが……。

「ねぎ・すぷりんぐふぃーるどハ普通ニ修行ノ形ニシテタゼ」

 俺があまり関わりたくない人物ランキングの四位くらいの位置にいるやつだ。
 ちなみに、一位が目の前の呪い人形の主。
 最近ランキング急上昇中の、超鈴音は五位。

「俺には俺の能力があるんだよ。あのガキに合っていても、俺に合っていない修行をやらせたって、成長するわけねえじゃねえか」
「泣キ言カ。情ケナク思ワネエノカ?」
「したいこと、出来ること、やらなければいけないことの三つを複合的に考えないと意味が無いって言ってんだよ。
 精神論を持ち出して、俺を貶めるのはやめろ」

 ただ、全くの無意味ではないかもしれない、というところが悩みどころだ。
 人を鍛える、ということをネギでやっているらしいエヴァンジェリンが、わかっていないはずがない。
 だから、何か意味がありそうな気もするのだが、今のところ俺にはそれが何かさっぱりわからない。

 さりげなく意図を探ろうとしているんだが、エヴァンジェリンもこのチャッキー二号も煙に巻いてくる。
 二人とも、俺が探ろうとしていることを理解しているようで、直接口に出して言わないが、どこか開き直っている節があるから始末に負えない。

「ホレ、帰ルゾ。旦那サンヨォ」
「疲れたから、おぶっていってくれないか?」
「ケケケ、ヤナコッタ」

 辺りは既に夕闇に覆われている。
 俺が気絶する前には、多少なりとも太陽が顔を出していたもんだが、夕日は沈んでいる。
 かといって、完全に闇に包まれているわけでもない。
 夜空に浮かぶ無数の星と、満月が、ほんのりと照らしている。

 字面は綺麗だが、風景はそんなに風流ではない。
 なぜなら、さっきまでの特訓とやらで、辺り一帯は戦場の様相を示しているからだ。
 砂浜は抉れ、海は凍り、椰子の木は焼けこげている。
 鉛玉は埋まっていないが、氷の矢はごろごろと埋まっているし、局所的に凍った海が、歪な沿岸を形成していて、波が不規則に弾けている。
 落雷の直撃を受けた椰子の木がまっぷたつに裂けて、双葉みたいに転がっている。
 まさに凄惨たる様相を示しており、これの中央でワルツを踊っていた俺が、未だに生きていることを信じられないでいる。
 焼けこげた砂浜で、月の明かりに照らされて、刃物を持った人形と人間が一緒に歩く、とは、なんともシュールな光景か。
 出来れば、目の前の歩く物体をサッカーボールよろしく蹴り上げてやりたいところだが、そんなことをしたら蹴ったと思った足が足首から先が地面に落ちてい たなんてことなりかねないから出来ない。

 現在の俺の状態はあまり良くない。
 取り巻く状況は言うに及ばず、なんにしても俺は疲弊しきっている。
 魔法を使い、魔力を体に取り込む術を持った人間ってのは、普通の人間より頑強だ。
 それに加えて、俺は社会通念上あまりよろしくない非合法な組織に所属し、そこで特別な訓練を積まされた。

 だから、やろうと思えば数週間ぶっ続けで活動することも出来るんだが、今はとにかくへばっている。

 一日目に受けた拷問のせいで血を大量に失って、かなりきつい。
 それなのに、エヴァンジェリンと愉快な仲間達と鬼ごっこをするのは、へばって当然のことだろう。
 栄養失調状態で米俵を担いでフルマラソンをするかのごときだ。

「マア、正直ナ話」

 手足が引きちぎれているのかと感じるほどの痛みを覚えながら、ゆっくり体を起こした。

「オ前ノ事ヲ、封ジ込メテオキタインダロウヨ」

 這うように四つんばいになり、膝立ちし、立ち上がる。
 一つ一つの動作で、気を抜くと倒れそうになりながら、なけなしの精神力を振り絞った。

「それは、エヴァンジェリンが? それとも超鈴音が?」
「両方ニ決マッテンダロ、バーカ」
「それほど着目してもらえているなんて、光栄だね」

 幸いながら、超鈴音にとって俺はまだ利用価値がある存在らしい。
 爆弾を手動操作で爆破させることを押しつける程度の利用価値だろうが、少なくとも、手動操作をさせるまでは生きていてもらう、と考えているはずだ。

 何でこんな事に……なんて弱音は吐かない。
 よく考えずとも、俺がこういう目に遭うのは自業自得とも言えるからだ。
 超の策謀にハメられたとはいえ、俺自身、超鈴音のような、人を踏みにじる振る舞いを多々してきた。
 今はただ、じっと耐えて、隙をつくことに専念しなければならない。

 臥薪嘗胆、臥薪嘗胆。

「オマエモ、結構転ンデモ起キナイたいぷダカラナ。
 下手ニ遊バセテオクト、寝首ヲ掻カレルト思ッテルンダロウヨ」
「何言ってんだよ。俺は惰弱だぜ?
 もうちょっと、ダラダラさせていてもいいんじゃないのか?」

 チャッキー……チャチャゼロは無表情のまま、ケタケタと笑った。

 満月が照らす、荒廃した砂浜に、影が二つ。
 一つは手乗りサイズで、もう一つはよろよろとゾンビのごとくよろめいている。

 端から見れば、なかなか珍しい光景だろう。
 低予算のファンタジー映画さながらだ。



 その後、結界内のログハウスに戻り、夕食を取った。
 俺はとにもかくにも疲労困憊だったので、寝椅子に座ったまま、食べさせてもらった。

「ご希望なら、口移し致しましょうか?」
「いや、いい」

 疲れ果てて、胃がおかしくなっているというのに、血の滴るようなステーキが夕飯だった。
 細かく切り分け、ソースを一滴もこぼすことなく、茶々丸が俺の口に放り込んでくる。

 いい肉を使っているのか、はたまた調理方法がうまいのか。
 口の中に入れられた肉はすぐさま溶けるように無くなってしまう。
 判断がつかないのは、度重なる教練と、超印の怪しい薬を飲まされたせいで、味覚が麻痺しているせいだ。

「ケケケ、ソーイウノ、好キダト思ッタンダガナ」
「口移しさせるのは好きだが、口移しされるのは嫌いなんだよ」

 チャチャゼロは、相変わらずの無表情だが、どことなくあきれているような雰囲気を漂わせた。

 いくら精巧に出来ているとはいえ、所詮人形は人形。
 この微妙な機微を理解できるはずもなかったか。

「ダッテヨ。ゴ主人」
「な、何故、そこで私に話を振る!?」

 エヴァンジェリンは、俺をさんざんたたきのめした疲労なぞ露も見せず、優雅に食事をしていた。
 チャチャゼロに急に話を振られて動揺しているが、俺みたいにフォークすら持ち上げることすら苦痛といった風ではない。

 エヴァンジェリンは俺にとって苦手な相手であることを今更説明する必要もないだろう。
 その力の強さはもちろんのこと、行動がいまいち読みにくいという点も苦手だ。

 一面的にはわかりやすいんだが、いかんせん俺が知っているエヴァンジェリンのデータは学園結界に囚われている状態でのもの。
 軽くなでるだけで首がへし折ることができそうな、今の状態のデータはわからない。

 ある程度、プロファイリングで性格なんかが読むことはできるが、相手は何百年と生きている吸血鬼だ。
 どこまで人間用のプロファイリングが通じるかを考えると、信頼できるようなものではない。

「なんだ? 俺に口移しで食べさせたかったのか?
「ば、馬鹿なことを言うな! 私がそんなことするはずないだろうっ!」

 とはいえ、状況からわかることもある。

 俺の寝そべっている寝椅子の隣に誰も使わない小さな椅子があったり、その椅子の隣に何も乗せていない皿がのったテーブルがあったり、更にその皿の隣に予 備のフォークやナイフなんかが用意されていたら、誰だってわかる。


 さて、どうしたものか。
 さっき俺が言ったことはまごうことなき事実だ。
 ここまでお膳立てされたら、やった方がいい気もするが、乗せられてやるのはつまらない。

 しばらく考えた後、体をゆっくり起こした。

「口移しで食べさせてくれ」
「ばっ、馬鹿! するわけないだろう、そんなこと!」

 体を寝かせた。

「別にお前にやってくれ、とは言ってない。茶々丸、頼む」
「わかりました」

 茶々丸は表情らしい表情を見せず、皿の上の肉を一切れ口の中に入れた。
 機械的に……というか、機械そのものなんだが、肉を軽く咀嚼し、顔を近づけてくる。

「ダメだ」

 これは俺の言葉。
 近づいてきた茶々丸の顔を手で遮る。

「何かお気に召さないことがありましたか?」
「折角口移しをさせるんだ、雰囲気を出してくれ」

 ぽんぽん、と俺の寝椅子を叩く。
 それでも理解できていないようなので、明確なイメージをテレパスで茶々丸に送った。

 口に出して説明しなかったのは、エヴァンジェリンをじらすためだ。
 超によって、マスター権限が俺に移った特権として、特別なラインがある。
 いかにエヴァンジェリンであっても、このラインを通じてのテレパスは盗み見るのは難しいはずだ。

「……失礼致します」

 茶々丸は、新しい肉を口の中に含み、俺の寝椅子に膝をかけた。

「なっ!?」
「オオ!」

 茶々丸は、寝椅子に膝を立てている。
 つまり、俺にまたがっているような体勢だ。

 バランスが崩れるってことはないだろう。
 俺は超科学については門外漢だが、それでもこの木偶人形が人間よりも優れたバランサーを持っているのはわかる。

 茶々丸の長い髪の毛が、俺の顔を少しなでる。
 俺にまたがっているような体勢を取っている茶々丸は、やや前傾姿勢で、俺を見下ろしている。

「……」

 茶々丸が顔を寄せてきたのを、今度は拒まない。
 唇に人工の皮膚とは思えない柔らかい感触があった。

 口移しそのものは、楽しくもなんともないものだった。
 機械だから当然と言えば当然だが、唾液はなく、ただ細かくかみ切られた肉が流し込まれただけだ。
 「口移し」という行為にそれ以上もそれ以下の意味もない。

 茶々丸が目を閉じていたことだけが少し印象に残った。
 単なるレンズの保護のためなのかもしれないが。

「ちょ、ど、どけ! 茶々丸!」

 俺と茶々丸との口移しは口移し以上の意味はなかったが、端から見ているエヴァンジェリンにとってはそうではなかったらしい。

 片方がロボットであっても、寝ている俺にまたがり、粘液接触するのは大変衝撃だったようだ。
 緑色の長い髪の毛がカーテンとなって、肝心のキスシーンが見えなかったのが、更に想像をかき立てたかもしれない。
 恐らく、エヴァンジェリンの中では、恋人同士の睦言を紡ぎながらの行為に見えただろう。

「……」

 エヴァンジェリンが俺の寝椅子の横に来て、茶々丸にどけ、と言っているが、茶々丸は動かない。
 それもそのはず、今は茶々丸のマスターは俺であり、命令におけるプライオリティは俺の方にある。

「いいぞ、茶々丸、どいてやれ」

 たいして面白くもない、と思っていた行為だが、こう外野がうるさく騒いでいる分には少し楽しさがあった。
 茶々丸は俺の上からどいて、寝椅子の脇に立った。

「私が、やる!」

 表情一つ変えずにすました顔をしている茶々丸とはうってかわって、エヴァンジェリンは血気に逸っていた。
 自分がやりたかったことを、他人がやっているところを見て、我慢ができなくなったんだろう。

 茶々丸より遙かに乱暴な動きで、エヴァンジェリンもまた、俺に跨るような格好をとる。

「おわっ!」

 茶々丸のときでも結構きわどいところだったのに、足の短いエヴァンジェリンには色々辛いところがあったのだろう。
 膝立ちのバランスを崩して、俺の胸の上に顔を落とした。

 一拍おいてから、エヴァンジェリンは体を起こし、俺と体が密着したことに激しく動揺してぎゃーぎゃーわめき始めた。
 これが健全な少年の読む漫画雑誌だったら、俺も胸を高鳴らせるハプニングなんだろうが、残念ながらそうじゃない。
 通過儀礼としての行為に退屈さしか感じないし、あるのは胸の高鳴りの代わりに欠伸をしたいという欲求だけだ。

 そもそもエヴァンジェリンにしたって、何を今更、だ。
 昨日の夜はあれほどの行為をやったというのに、こんなことでいちいちわめいていたってしょうがないだろうに。

「ふーっ、ふーっ……それじゃ、す……するぞ……」

 エヴァンジェリンは、俺に跨る前に皿にのせてあった肉を切ってなかった。
 バランスの悪い足場で、改めてナイフを使って肉を切る、という試みをしていたが、結局は無駄に終わった。
 中途半端にナイフが入った肉のかたまりを、どうせ噛んで柔らかくするのだから、とそのまま口に放りこんだ。

 もっちゃもっちゃと音を立てて、肉を咀嚼し、上気した顔が、俺の眼前に迫ってくる。

「……ん……」

 一回目はただエヴァンジェリンのなすがままにしていた。
 茶々丸と違い、肉には唾液がふんだんにまぶしてあり、その点はよかったが、それ以外はてんでダメだった。

 頭を離したときには、エヴァンジェリンの口の周りはソースと肉の破片で汚れていた。
 多分、それに口移しをされた俺の口も同じような状態なんだろう。

「ふーっ……ふーっ……なんてことは、ないな……
 口移しと聞いていたが、こんなこと、大したことはない」

 茶々丸以下という判定を出したのは俺だけで、エヴァンジェリンは非常に満足そうだった。
 ソースにまみれた口からは、強がりな言葉をとばしているが、目は潤み、口元に張り付いた笑みは消せていない。

 ここで一つ睦言をとばしてやれば、ころりと落ちるだろうが、そんなことをしたってしょうがない。
 別に俺は、エヴァンジェリンを喜ばせたいわけじゃない。

「さ、続きだ」

 と言ったものの、さっき口移しで固まりを食べさせてしまったので、残りはない。
 俺としては、もう満腹なんだが、エヴァンジェリンは満足していないようだった。

 新しい料理を茶々丸に持ってくるように指示した。

「……」
「……」

 とにもかくにも、茶々丸が料理を持ってくるまでの時間が空いた。
 エヴァンジェリンは俺の顔を見下ろして、なんだかにやにやと笑っている。

「そんなに口の周りを汚して、しょうがないやつだな」

 お前がそれを言うのか、と言いたくなった。
 俺の口の周りが汚れているのは、エヴァンジェリンのへたくそな口移しのせいだ。

 それに、そういう本人の口の周りも人のことは言えない状態だった。

「どれ、私が綺麗にしてやろう」

 もう慣れたのか、エヴァンジェリンは実に楽しそうに俺の口の周りなめ回し始めた。
 ソースがなめ取られ、肉片を前歯でつまみ取って咀嚼する。

 犬を彷彿させるような嘗め方で、俺の口の周りをぬぐった。

「……ふふふ……」

 嘗め終わったエヴァンジェリンの顔は非常にうれしそうだった。
 ぺろりと舌を出し、自分の口の周りをなめた。

 そのとき初めて自分の口の周りもソースまみれだということに気づいたようだった。

「……」

 じっとこちらを見て、それとなく、自分の口周りをアピールしてくる。
 恐らく、今度はそっちがやれ、と言いたいのだろうが、無視する。

 反応がないことに、エヴァンジェリンは不満そうにするが、俺は気にしない。
 エヴァンジェリンの目をじっと見つめる。



 目、というのは昔から、人間の中で重要な器官だ。
 俗に言う第六感というものを信頼していない、こちらの世界でも、外界からの刺激の大半を目で頼っていると言われている。
 魔法界においても、瞳は非常に重要な器官とされている。

 見るだけで死に至るバロールの魔眼や、目を見ると石化してしまうメドーサの瞳、あるいは様々な護符に目の文様が書かれているように、目に関する魔法の事 柄は非常に多い。

 俺の得意としている精神魔法の中でも、目は重要な役割をしている。
 「目は口ほどに物を言う」という言葉があるように、目というのはその人間の考え方を表現している。

 同じ光景を見ていても、その光景の何に着目するのか、というのは個々人によって異なる場合がある。
 例えば、海を見たとき、釣り人が見れば魚がいるかどうかを考えるし、サーファーが見れば波を見るだろう。

 こういった「何を見るか」や「何を見てきたか」というのは、目の中に断片的に記憶されている。
 もちろん、こちらの科学では証明されていないことだが、確かに眼球には魔力を媒介として記憶が詰まっている。

 そこから全ての情報を引き出せるわけではないが、目を見ただけで人となりというものが少し理解できる。


 エヴァンジェリンの瞳は、物理的には青いが、その中身は黒かった。

 彼女の因縁は俺も少し知っている。
 真祖の吸血鬼として、様々な経験をしてきたのだろう。
 様々な色が混じり合って、様々な記憶が油汚れのようにへばりつき、真っ黒になっている。

 長命の種族はこうなる傾向があるらしいが、エヴァンジェリンは出自の関連で更に黒い。
 とはいえ、これが珍しいわけじゃない。
 人間の中でも、十数年生きてきても、同じような黒さを持っているやつはいる。

 エヴァンジェリンはむしろ長年生きているという条件が合っても尚、比較的マシな方だ。



「……ふふふ」

 口の周りを嘗めてもらえなかったことに不機嫌そうな表情をしていたエヴァンジェリンだが、俺にじっと見つめられていることに気づくと、また機嫌を直した ようだった。

「お前、今、幸せか?」
「……別に」

 本当のところ、幸せなんていうものと対極に位置する状況だが、それをいちいち言うのも面倒だった。

「私もそうだったぞ。
 満たされることなど何もなく、何故自分が生きているのか、という意味すらも見いだせなかった」

 興味ない。
 そもそも生に意味なんてあるものか。
 俺が生きているのだって、生理的な欲求に突き動かされているだけだ。

「ただ、今は違うな。
 私は何故生きているのかと問われても、それに対する答えを手に入れた」

 そいつはよかったな、と言いたくなった。
 まだ、エヴァンジェリンは何かを言いたそうにしていたが、ちょうどそのとき、茶々丸が料理を運んできた。

 今度は同じ轍を踏まないためか、茶々丸にあらかじめ、肉を細かく切らせていた。

 細かく切った肉をひとかけら、エヴァンジェリンは牙の除く口に放りこみ、もきゅもきゅと咀嚼する。
 エヴァンジェリンの顔が再び近づいてくる。

 必然的に、エヴァンジェリンの目が、俺の間近に迫る。



 次の瞬間、自分で何をしたのかわからなかった。
 本当に瞬時の出来事で、終わってからも尚、数秒間、俺の思考は止まっていた。

 俺の寝椅子の右側の床にエヴァンジェリンは左肩からたたきつけられた。
 持っていた皿は大きな音を立てて割れ、小さなテーブルはエヴァンジェリンにはじかれて数メートル離れたところで倒れていた。

「な、何をする!」

 俺は、何をしたんだろう?
 自分でもわからなかった。

 じんわりと記憶がよみがえってくると、エヴァンジェリンの首根っこをつかんで地面に引き倒したことを思い出した。
 何をしたのかを思い出しても、『なんでしたのか』はわからない。

 わかるのは、俺の頭に異様に血液が上っていることと、心臓の動悸が激しくなっていることだった。
 そして、こうやって物事を考える思考リソースの割り当ては非常に部分的で、それ以外の部分は怒りに囚われていることだった。


 そう、何故か俺は怒っていた。
 激怒していた、と言っていいだろう。


 ただ、何が原因で怒りを覚えたのかはわからない。
 とにもかくにも、相手がエヴァンジェリンであろうが何であろうが、力任せに投げ飛ばすくらいの怒りがこみ上げていた。

 超に仕込まれた精神トラップか?、と疑ったが、どうやら違う。
 これは俺の心から自然とわき上がってきた怒りだ。

「……」
「おい、何か言え!」

 黙りこくっている俺に、エヴァンジェリンが何かを言った。
 きちんと聞こえたが、何を言っているのか理解ができない。

「……寝る」
「ちょっと待て!」
「うるさい!」

 また何かエヴァンジェリンが言った。
 聞こえているのに、内容を理解できないのは、激しい怒りがエヴァンジェリンの言葉を拒絶していることが原因のようだ。

 エヴァンジェリンの顔をちらりと見た。
 それだけで胸の奥が焼けこげそうな衝動がこみ上げてくる。

 一瞬見えたその顔は、驚きに彩られていた。
 俺の豹変に戸惑い、更に俺のがむしゃらな怒りを感じ取ったようだ。

 まだ俺の頭の冷静な部分が、俺の体を動かした。

 エヴァンジェリンの方は向かない。
 顔を見続けたら、なりふり構わずに殴りかかりかねなかった。

 寝椅子から立ち上がり、リビングの出口までの直線距離の間にあったテーブルと椅子を蹴り飛ばし、歩く。
 まだ全身が痛むはずなのに、全く何も感じやしなかった。


 リビングを出て、廊下を歩き、俺に割り当てられた部屋に入る。
 ほとんどベッドしかない部屋に入ると、そのままベッドの上に横たわった。

 部屋の外で何が起こっているかはわからない。
 音という音が聞こえなくなり、気配も振動も、何も感じ取れなくなった。

 ベッドに入ると、寝不足と疲労の助けもあり、すとんとそのまま睡眠に落ちることができた。



 次に意識が覚醒したのは、眠ってからおよそ四時間後。
 二十三時過ぎだった。

 まどろみの中、俺の部屋の前に何かの気配を感じ取った。
 すぐさま意識が回復し、神経をとぎすませる。

 部屋の外にいるものは、確かに殺意を持っていた。

 ただ、ベッドから起きず、寝たふりをする。
 ドアが開き、外にいたものが中に入ってきても、そのままだ。
 俺の眼前にナイフを突きつけてきても、目は開かない。

「オイ、起キロヨ、テメエ」

 闖入者はチャチャゼロだった。
 自分の体よりも大きな刃物を俺に向けている。

 そこで初めて俺は目を開いた。

「起キテタカ」

 チャチャゼロは刃物を引っ込めた。
 同時に殺意も消す。

 どうやら、チャチャゼロは目覚まし時計代わりに来たらしい。

「ンデ、ナンデ急ニブチ切レタンダ?」
「さあな」

 四時間の睡眠は俺の心を静めてくれた。
 あれほど煮えくりかえっていた怒りの感情は消え失せていたが、同時にその原因もわからずじまいだ。

「ワカラネエッテコタァネーダロ。
 ゴ主人ノ馬鹿ミタイナ戯レニ付キ合ッテイタノニ、急ニ暴レ始メタッテコトハ、ヨッポド腹ニ据エカネタンダロウ?
 オ前ハ、正気ダッタラソンナコトヤルたいぷジャネーシナ」

 普段の俺では絶対にやらないような立ち居振る舞いだった。
 ただ、あの激情の原因はやっぱりわからない。

 あまり怒りすぎていて忘れてしまったのかもしれない。

「いや、本当にわからん。
 自分でもなんであんなに怒ったのかもな」
「今ハ、モウ大丈夫カ?」
「ああ、なんとかな」

 チャチャゼロは持っていたナイフをどすりと壁に刺した。
 そのままひょいひょいと刺したナイフに上り、柄の部分に腰掛けた。

「超カ?」
「いや、多分違うな。
 まがりなりにも俺は洗脳と精神魔法のスペシャリストだ。
 その手の処置をなされていたのなら、そうだと気づく」
「ンナラ、ナンデナンダヨ」
「知るか」

 知るかって、おめーなあ、とチャチャゼロがため息をはいた。
 自分の中でも、あのときの記憶を反芻してみたが、やっぱりよくわからない。

 怒りに我を忘れる直前、エヴァンジェリンの目を見た気がするが……。

「お前のご主人様は魔眼でも持ってるのか?」
「少ナクトモ、相手ヲ憤怒サセル魔眼ハ持ッテネーナァ」

 ……

 エヴァンジェリンの青い瞳の黒い眼球に、何かを見た気がする。
 それが何だったのか覚えていない。

 ……

 俺の怒りの原因はそれのせいだったのかもしれない。
 何なのかはわからないが、俺が怒りを覚えるようなものを見てしまったのだろう。

「精神交雑デモシタノカモナ」
「いや、イメージは流れ込んでこなかった」

 何がなんだかよくわからない。
 変なことにならなきゃいいが……。

「マア、ソレハトモカクトシテ、ゴ主人ヲドウニカシロヨ」

 チャチャゼロはくいくいと窓を指さした。
 窓の外に人影らしいものは見えない。
 エヴァンジェリンはこのログハウスの外にいるっていう意味だろう。

「ご機嫌伺いか」
「嫌ソウナ顔スンナ。自分デ撒イタ種ダロ」

 俺はエヴァンジェリンのことは大嫌いだ。
 だから癇癪を起こしたってわけじゃないんだが、できれば顔を見合わせたくない。
 超の脅迫がなければ、絶対に関わり合いを持たないはずだった。

 さっきまでは嫌々ながらも付き合っていけたが、あんな目に遭わせてしまった後じゃ、更に接するのが億劫になった。

「明日じゃダメか?」
「ダメダ」

 チャチャゼロは非情だった。

「アノアト、ゴ主人ハガチ泣キシテ、大変ダッタンダゾ。責任ハキチント取レ」
「責任があるかどうかは別として、俺がわざわざ責任に対しての義務をきちんと取らなきゃいけない立場かと言うと、それはそれで……」

 頬を切って、細いナイフが俺の背後の壁に突き刺さった。
 ビィィィン、と揺れる音が耳を叩いてくる。

 何も言ってはいないが「ゴチャゴチャ言ウナ、早ク行ケ」と作り物の目が物語っていた。

「わかった、わかったよ。行きゃーいいんだろ」

 学園結界がきいている外ならともかくとして、中なら目の前にいるチャッキーは俺より強い。
 というよりか、俺を瞬殺することができる。

 強いものには服従する。
 とはいえ、心の中ではそうではない。
 面従腹背が俺の処世術だ。



 玄関を出ると、エヴァンジェリンの姿はすぐに見つけられた。
 夜の月明かりに照らされた砂浜に生えた、椰子の木の下で体育座りをして顔を埋めていた。

 改めてエヴァンジェリンの姿を見て、俺は自分の心の中を調べた。

「……大丈夫、怒りの気持ちはない」

 嫌な気持ちにさいなまれながらも、背後から突き刺さる視線に押され、俺は一歩、足を踏み出した。