ルイズは数日の間、最低限の水しか口にせず、一日中部屋に籠もっていた。
もとより若い女性であるがゆえに、握力も腕力もなく、更に弱っていたせいで才人の胸ぐらを掴みあげた腕はすぐに悲鳴を上げた。
一時の激情によって感じなかった痛覚が蘇り、ルイズは痛みに顔をしかめる。
白魚のように細く綺麗な指が、自分自身の込めた力によって引きつっていた。
掴んでいた才人の服を離し、思い出したかのように痛みを感じる指をさする。
体と同じように衰弱しきっていた心が再びうずき、ルイズは自分の指を庇いながら、目から涙を流した。
うっうっ、と嗚咽を漏らし、その場で泣き始める。
才人は、ルイズの様を見て後悔の念に襲われた。
才人にとって、ルイズは高慢ちきな女、という認識を持っていた。
今目の前にいる彼女は、その認識から大きく外れている。
激変といってもいいほどの変化をもたらしたのは、考えるまでもなく自分だった。
彼女を打ちのめした決闘は、自分の矜持を守るためのものだった。
決闘を始める原因もそうだったし、命の取り合いになりかねない展開に発展したこともまた同じ理由からだった。
そのときは、確かに男としてのプライドは、意地の張り合いだったことも確かだが、命よりも大切なものだと思っていた。
だが、今、しおれた花のように泣く女の子を見ると、自分のプライドなんてものは取るに足らないくだらないものに見えてきた。
「もう、帰ってよ……」
嗚咽に混じったかすれた声で、ルイズは言った。
親の期待が過大であったにもかかわらず、自分の才能と努力でもってそれに応えてきたルイズにとって、先の決闘はあまりにも大きすぎる挫折だった。
なまじ今まで大きな失敗をしてこなかったせいで、自分の失態の受け止め方を知らなかったのだ。
精神の太くて固い主柱が折れ、未だ自分で足で立つ方法を思い出せていなかった。
あるいは、彼女の家族が……優しい姉だけでなく、厳しい姉や母、そしてなんだかんだいって甘い父がいれば、立ち方を教えて貰えただろう。
しかし、ここはトリステイン魔法学院。
ヴァリエール領ではなく、また同時にルイズには自分の家族ほど親しい友人はいなかった。
「いや……その、ごめん」
才人は全般的に思慮が足らなかった。
とはいえ、彼に今まで泣いている女の子の対処などした経験などなく、無理はないものだった。
力なくつぶやいた謝罪の言葉は、ルイズの慰めになどならず、僅かに残るプライドを傷つけるものだった。
哀れに思われている、ということが、ルイズの頭に血を上らせる。
思い出したかのような一時的な怒りの火がルイズの体に灯り、拳を握らせた。
ガッ、とルイズの拳が才人の頬を打った。
そして、それと引き替えに、ルイズは床に膝をついた。
数日間、絶食状態にあったルイズの体力は、ほとんど残っていなかった。
動いていなかったせいで意識していなかった体力の衰えは、拳をがむしゃらに振るったことの反動をもたらした。
一旦頭に登った血が、不意に下に落ちる感覚に襲われ、目の前が霞み、足が立たなくなった。
「あ、おい、ちょっと!」
才人は渇いたタオルが頬に当たったかのような感触を味わった後、その場で崩れ落ちそうになったルイズの体を支えた。
流石に意識は保っていたものの、ルイズの手足は力なく垂れている。
才人はもたれかかってくるルイズの体を押し返すわけにもいかず、その場で硬直した。
どう対処すべきか、ということを頭の中で激しく考えた。
やはり、彼女を支え、どうにかしてやらなければならない、と考えるのだが、その『どうにか』という部分が具体的に思い浮かんでこない。
かといって、このまま放っておくことなど論外。
ルイズ自体はそのまま動こうとしない……実際にはルイズ自身も未だ消えない目眩のせいで、立ち上がるにも立ち上がれなかった。
才人は、意味もなく辺りを見回すと、手に持ったままのサンドイッチの皿が目に入った。
この皿はどうしようか、と、やや現実逃避の思考に走ったとき、ルイズのお腹が、きゅるるる、と鳴った。
才人の顔に思わず苦笑が浮かんだが、それをルイズに見られるとルイズが怒り出すことが明白だったので、すぐに笑みを消した。
ルイズは才人に運ばれて、自室のベッドに横たわらせられた。
才人の傍らには、騒ぎを聞きつけてやってきた隣室のキュルケが立っており、気怠そうな表情を浮かべていた。
「まったく呆れた。何日も飲まず食わずで引きこもっていたなんてね」
キュルケはちらと部屋の隅を見た。
ルイズが部屋に引きこもっていたとき、何度か給仕によって部屋に運ばれた食事が部屋の隅に置かれている。
どれもこれも手つかずで埃を被り、一部のものはわずかに異臭を放っていた。
「うるさいわね。出て行きなさいよ」
未だ栄養が足りないルイズは力なく言った。
いつもの覇気はなく、目の下には隈が浮いている。
「私だってあんたが飢え死にしようが何しようが別にどうとも思わないわ。
だけど、私の隣室で死ぬのは止めて頂戴な。死体の臭いが染みついたら嫌だしね」
キュルケはそういいつつもそっと懐から小瓶を取り出した。
中には青みがかった液体が入っており、ランプの光に照らされてきらきらと光った。
「……いらないわよ」
「何日も食べていないんなら飲みなさい。
体力を回復させないと、柔らかいものでも食べるのは辛いわよ」
差し出しされた小瓶を、ルイズは見つめるだけで受け取らない。
キュルケは目を閉じ、小さなため息を吐いた。
「どうしても飲まないっていうんなら、そこの彼にあなたを押さえつけさせて無理矢理飲ませるわよ。
それでもいいの?」
「……」
才人はキュルケにちらと目を向けられ、少し戸惑ったが、すぐに立ち直した。
ルイズは流石にそれは嫌なのか、再び差し出された小瓶を受け取った。
やせ細った指で小瓶の蓋を取り、ぐい、と傾けた。
口の中が乾燥し、うまく唇を動かせなかったせいか、小瓶の中の液体が少しこぼれ落ちたが、ルイズはむせながらも大部分を呑み込んだ。
「じゃ、私は眠らせて貰うわ。
誰かさんのおかげで、ここ最近ぐっすり眠れていないもの」
キュルケは小瓶を受け取ると、そのままあくびをし、ドアを開いて部屋から出た。
「あ、じゃ、俺も……」
才人がそれに続こうとすると、キュルケはそっと才人の胸を押した。
あくびをしたことで目尻に涙を浮かばせながら、キュルケは魅惑的な笑みを見せ、みずみずしい唇でそっとつぶやいた。
「ほら、男を見せてあげなさいよ」
突然のことに泡を食った才人を尻目に、キュルケはそのままドアを閉じた。
部屋には、ぽつんと突っ立ったままの才人と、さっきとはうってかわってサンドイッチをがっついて頬張るルイズだけが残された。
とりあえず才人は、ルイズがサンドイッチを貪り終わるのを待った。
キュルケには、ああ言われたものの、才人にはこの局面をうまく切り抜ける方法が全く思い浮かばなかった。
ルイズがここまでボロボロになった原因を作ったことは悪く思っているが、ではどうやって償いをすればいいのか、わからなかった。
一人黙々と、小さい口にリスのように頬張っているルイズを見て、この状況をどう乗り切るかを考えた。
女子と話した数少ない経験を元に、思考能力を総動員する。
そのうち、そもそも、何故、ルイズがこんな状態になっているのかを知らないことに気が付いた。
決闘に勝ったことが、このような状態に追い込んでしまった原因であるとまでは推測がついたが、それにしてはショックを受けすぎだと思えたのだ。
才人は、あの決闘のことを思い出そうとした。
あの決闘のときの記憶は、まるで夢を見ていたかのような……自分が自分でないかのような不思議な感覚に包まれていた。
絶対に負けられない、という感情はもちろんあったが、それに加えて自身の闘争心が煽られるようなものがあった。
「……で、あんたはいつまでいるわけ?」
不意に声を掛けられたことに驚き、才人は思考を打ち切った。
目の前には、空の皿を抱えたルイズが睨んできていた。
一気に血色がよくなったせいか、才人はルイズの眼光の鋭さにうっと言葉を詰まらせ、後ずさりした。
「い、いや、なんだ、その……」
結局何も思い浮かばないまま、ルイズが食事を終えてしまった。
才人はいっそこのまま言葉通り、部屋を出て帰ってしまおうか、と思ったが、キュルケの言葉を思い出した。
男を見せる、とルイズに気取られないように口の中だけで小さくつぶやいた。
頭にわずかに血が昇っていくのを感じ、軽く深呼吸をして気分を落ち着かせる。
「何か俺に出来ることはないか? 出来ることなら、何でもやってやる」
頭に昇った血がそのまま顔の皮膚に滾り、熱くなるのを感じた。
極めて場違いなことを言っている自覚はある。
だが、才人の思いついたことと、キュルケの言う『男を見せる』というものの中間点がこれだった。
謝る、という行為が間違った行為である、ということは才人にも流石に察せられた。
ごめん、と言ったとしても、何が? と言われてしまうと答えられない。
答えられないのは単純に知らないからなのだが、理由もなく謝ることを選ばなかった。
では、謝罪の言葉以外で何が目の前の少女の害してしまった気分を取り戻すことが出来るのか、と咄嗟に考えた結果だった。
「……なんで私があんたなんかに何かしてもらわなきゃならないのよ」
ルイズはじと目で才人を見た。
腹くちくなったことで落ち着いたのか、出会い頭のように才人にくってかかることはしなかった。
ただし悪意は変わらず持ちあわせており、才人を睨む目は力強さがこもっている。
「えーっと、それは、まあ……その……」
決闘で負かしてしまったから、というのはこの場で言うのは相応しくないとわかった。
頬をひっぱたいてしまったから、というのは相応しくないどころか喧嘩を売っていることに等しいことだろうこともわかった。
「ほ、ほら、以前にシルフィードに乗せてもらっただろ? あれのお詫び、というかお礼というか……」
流石に苦しすぎることに、才人は引きつった笑いを見せた。
ルイズはそれを見て怒ることはせず、膝を引き寄せて、目をそらした。
「つくづく自分が嫌になるわ。平民なんかに同情されて……」
ルイズは少し視線を動かした。
才人が平民という言葉に少し反応し、すぐに取り繕ったのを見て、また目をそらす。
二人の間に微妙な雰囲気がただよったまま、沈黙が続く。
外の森の鳥の鳴き声しか聞こえなくなった部屋に、不意に、くぅー、という音が響いた。
「……お、思ったより元気そうだな」
才人はフォローのつもりで言ったのだが、逆効果だった。
ルイズは顔を真っ赤にして、近くにあった枕を引き寄せ、才人めがけて投擲した。
もちろん、枕は羽毛を詰め込んだ柔らかいものだったので、才人は特に避けも防ぎもしなかったが、ぼふっ、と音を立てて落ちた。
「こっ、これはキュルケの薬のせいなの!
平民なんかが知るわけないでしょうけど、あの薬は衰えていた内臓の働きを一時的に活発にさせるの!
消化器官が働くのと同時に体力も少し向上するから、絶食後、食事がうまくできないときに飲むのよ!」
「ああ、だから、お腹が鳴ったのか」
「うっ、うるさいうるさいうるさいっ! わ、忘れなさい!」
ルイズのお腹はルイズの意を反して、きゅるきゅると鳴り続ける。
うー、と唸っていたルイズだが、お腹の音が響くたびに、顔の赤さをより濃くしていく。
才人の指摘通り、ルイズの弱っていた胃は何か新しいものを求めていた。
数時間前までには、あまりに強い感情によってさほど感じていなかった飢えが、ルイズを強く苛んだ。
「まだまだ足りないってんなら、厨房に来いよ。
俺の知り合い……っていうか上司がそこにいるから、頼んで何か出してもらえると思うし」
「あんたの施しなんていらないわよ」
ルイズは強く啖呵を切ってみたが、本心では胸元まで『何か食べたい』という言葉がこみ上げていた。
「……」
「……」
再び二人の間に沈黙が走る。
だが、今回の沈黙は才人にとって有利な沈黙だった。
ニヤニヤ顔を隠さなければならないが、じっと待っていれば向こうが折れてくれることを知っているからだ。
「……わ、わかったわよ」
「そうか。じゃあ、大盛りにしてくれるように頼むな」
「か、勘違いしないでよねっ! あ、あんたがどうしてもって言うから、し、仕方なく行ってあげるんだからねっ!」
「はいはい、わかったよ」
才人は部屋のタンスを開き、着替えをさっさと取り出す。
ルイズは才人の勝手な振る舞いに抗議の声をあげようとしたが、ベッドから立ち上がったとき、目眩に襲われた。
薬を飲んだとはいえまだまだ体は弱っており、立ち眩みをしたところを、気づいた才人に優しく受け止められた。
そのまま、まるでお人形のように着替えをさせられた。
大貴族のお嬢様として生まれ育ったさがか、体が自然と動いて着替えさせられてしまう。
着替えが終わって、部屋を出る前に、ルイズは才人に言った。
「い、いい。今日のことは誰にも言わないでよ。
ヴァリエール家の娘が平民なんかの力を借りただなんて、絶対に言いふらさないの!」
「ああ、わかってるよ。それより、目眩は大丈夫か? 真っ直ぐ歩ける?」
才人はルイズの酷い物言いには怒りを覚えなくなっていた。
先ほどの滑稽な姿を見たせいか、それほど気にすることはなくなっていた。
食堂に移動中、時折足下が怪しくなるルイズを支えては、いらないって言っているでしょ、と返してくることを軽くスルーできるほどの精神的余裕があった。
ルイズは食堂に入る前と、同じくらい足をふらつかせて、食堂を出た。
来たときと同じように、才人が傍らで立って、足下のおぼつかないルイズを支えている。
「まあ……確かに遠慮無く食え、って言ったけどなあ……」
少し呆れ顔を浮かべて才人は言った。
ルイズは一瞬才人を睨んだが、口を紡いでそっぽを向いた。
食べ過ぎた、というところはルイズにも否定できないことだった。
出されたのは平民の賄い食……しかもその残り物、という平時であれば絶対に手をつけないものだったが、スープから沸き立つ匂いには勝てなかった。
気が付けば椀にはスープの一滴も残っておらず、それでも尚、三大欲求のうちの一つは鳴りを潜めていなかった。
ルイズが何も言わぬ前に、才人が他の人間に頼み込んでいたので、五分も経たずにおかわりが出来ていた。
才人から差し出されたそれを、再びお腹に納めた。
それを何度か繰り返したことは、ルイズの頭の中にまだきちんとした記憶として残っている。
「……」
ルイズはかすかに顔の温度が上がるのを感じながらも、何も言わなかった。
彼女を知る人間であれば、今のルイズを珍しく見ていただろう。
ルイズがこういったからかいを投げつけられて……それも自分よりも身分の低い平民に……激昂していないのだから。
才女でありつつも、自我が強く、他者に対してやや攻撃的な性格であることは、学園内外でも有名だった。
他者からはそういった性格で評されるルイズであるが、決して恩知らずというわけではない。
自分自身で何でも出来るという気負いがあり、実際そうであるため今まで表には出ることはなかったが、恩を受けたら仇で返してはいけない、と優しい姉はもちろん、厳しい母と姉から教育されている。
傷つきはしたけれども、未だ肥大化している凝り固まったプライドを持ちながらも、その教育はルイズの中で根付いている。
才人の印象はルイズの中で最悪の部類に属するものであるが、才人に受けた恩を無視することはできなかった。
才人と一緒に食堂に来たとき、料理人達は皆、仕事を終え、自分の寝床に帰ろうとしていた。
そこを才人が頭を下げて、冷めた賄い食の残りに火をいれてもらったのだ。
平民の料理人達が、最初に自分に向けた目には好印象というものが含まれていないことを、ルイズは感じ取った。
職人気質というべき彼らは、自分らの生まれを根拠に差別をしてくる貴族を好んでいなかった。
貴族の中にも性格のいいものもいる、ということを知っているが、ルイズはその中に含まれていなかった。
むしろ、飛び抜けて嫌われている部類に属していた。
直接非難することはなかったが、露骨な視線を投げかけてきた。
普段のルイズであれば腹を立てるのだが、そのときは立つ腹が空きっ腹で、黙っていることしかできなかった。
黙るルイズにかわって才人は、頭を下げた。
「お願いしますよ、先輩」と、偉ぶるところなく、料理人達に頼み込んだ。
厨房で働く人達は、才人の境遇に同情を抱いていた。
長であるマルトーと同じように、気っ風が良い人間が多かった。
東方から無理矢理召喚され、その境遇に不満を言うこともなく、何もしてくれない主人に対して尚、労働して奨学金を返済しようとしている。
その健気さが、彼に対しての好印象になっていた。
仕事は真面目にこなすし、生意気なことをいうこともない。
多少不器用な面はあるものの、少なくとも「悪いヤツじゃない」という評価が付けられていた。
気に入らない貴族が職務以上のことをしてくれ、と頼んできても、一昨日きやがれ、と遠回しに言える料理人達だが、真面目な新人に頼まれたら断ることはできない、と引き受けた。
彼の面子を守るためにも、賄い食の残りを暖めるだけでなく、少し手を加えていた。
そういった裏事情を知らずとも、ルイズは才人が自分のためにしたことを理解していた。
少なくとも、飢餓感に苛まれたまま、翌朝まで耐えなければならない、ということを回避できた。
恩には恩でもって報いる。
ルイズは感謝の言葉を述べようとしたが、プライドが邪魔をし続けていた。
そもそも、才人が自分との決闘ですぐに降参しなかったことが悪い、という思考が一瞬だけ脳をかすめたが、流石にそれは口に出さなかった。
そんなこんなで感謝の台詞が口から出ることはなく、食堂を出た。
「あんた、名前はなんて言うの?」
「才人だよ。平賀才人」
「ふーん、変な名前ね」
才人は苦笑した。
ルイズは、以前も同じ問いをしており、そのときも全く同じことを言っていたからだ。
自分の名前を忘れられていたことに関しては、まあ、それもしょうがないか、と怒らずにいた。
ルイズの弱わっている面を垣間見たせいか、それほどルイズに腹を立てることはなくなっていた。
決闘前に見せていた傲慢ぶりは鳴りを潜め、今には少し気が強いだけの女の子に見えている。
才人はいつも何も言わないタバサの世話をしているせいか、ルイズもまた同じように彼にとっての妹のような存在に見えていた。
ルイズは不意に立ち止まった。
学園の中庭……食堂と寮との間の草むらにはまだまだ冷たい夜風が吹いている。
ルイズは悩みの末に、才人の恩に報いることにした。
「ありがとう」の一言を言うために彼女にしては相当苦悩したが、心の深い部分に存在する母親達の言葉は消すことができなかった。
ルイズは才人の上着の肘の部分を引っ張って、歩く才人を止めた。
なんだ? と聞いてくる才人の、月に照らされた顔を見ると、思わず顔が赤らむのを止められない。
ただ礼を言うだけなのに、こんなに精神力を使うのか、とルイズは赤い顔を才人に見られないようにと伏せた。
一方才人は、振り返ったはいいものの、その視線をルイズとは反対に上に上げていた。
才人の顔が驚きに染まっているのを、ルイズは気づかない。
「そ、その……私のために頼んでくれたことは、か、感謝しているわ」
ぶんぶん、と大きなものが空気を切っている音を、ルイズは気づかない。
「あんたのことなんか、大っ嫌いだけど……そのことについてはお礼を言うわ」
「あ、あ、あ……」
なんとなく、辺りに取り巻く違和感を、ルイズは感じることができたが、顔を上げる勇気はなかった。
「あ、ありが……」
とう、の最後の二文字は、地面を揺らすような轟音でかき消された。
あまりにも大きな音に驚き、振り返ってみると、そこには巨大な土人形が立っていた。
「ご、ゴーレム!? なんで、こんなところに?」
「おい、逃げるぞっ!」
土人形は拳を学校の建物に突き立てていた。
止まっていたその動きが再開すると、土の腕が引かれ、再び建物に向けて突き立てられる。
才人はルイズの腕を強く引き、ゴーレムから逃げるように走る。
あまりに強くひっぱったせいで、ルイズが、痛い痛い、というのもお構いなしにだ。
ゴーレムが殴っている建物とは反対の建物の陰に隠れる。
ルイズは、痛む手をさすりながら、建物の陰からひょっこり顔を出して、ゴーレムを見た。
「な、なんなんだありゃあ? この学院じゃ、あんなのが夜に闊歩してんのか?」
「そんなわけないじゃない……あのゴーレムはきっと賊よ。
あの建物は……教室はないけど、確か……宝物庫があったはず」
ルイズ達が見ている間にも、ゴーレムは何度も何度も建物の同じ部分を殴り続けていた。
ゴーレムを動かしているメイジも、恐らくは音を消すサイレンスの魔法を用いているのだろうが、それをもってしても消しきれない音や振動が二人に伝わってくる。
「宝物庫には魔法が掛けられていて、侵入できないから、無理矢理壁を壊して盗もうとしているんだわ」
「でも、そんなことしたら、中のものもメチャクチャにならないか?」
「そうだとしても欲しいものがあるんじゃない? とにかく、なんとかしないと……」
才人はルイズを押しのけて、ゴーレムを見た。
以前の経験を生かし、ポケットの中にいれておいたスリングを取り出す。
左手のルーンが微かに淡く光り始める。
それにともない、才人は類い希な暗視能力を得、視力が大幅に向上した。
「肩……あのゴーレムの左肩に、誰か乗っているな」
「本当? ……ここからじゃ、遠いし、暗くてよく見えないじゃない」
「ほれ、これを持ってみろ」
才人はルイズにスリングを手渡した。
暗いので何を渡されたかわからなかったが、才人に勧められるがままに、何かを持ったまま、再びゴーレムを見た。
「……別に何もかわらないけど?」
「あれ? おかしいな。これを持つと、目がよくなるはずなんだが……」
「何なの、これ? 紐?」
「いや、スリング。
ただ、学園長がくれたものだから、持つと目がよくなったりする魔法のスリングのはずなんだけど……」
「使い方は?」
「ただ持つだけだよ」
スリングというものが何か知らないルイズは、半信半疑でまたゴーレムを見た。
「……別に何もかわらないけど」
「おっかしいなあ。俺が持つと、本当に目がよくなるのに」
「まあ、いいわ。とにかく左肩に賊がいるのね。
貴族がひしめくこの学園に襲ってくるなんて、命知らずもいいところね。私が捕まえてやるわ」
「お、おい、やめとけって。あんなでっかいの、どうするつもりだよ」
「シルフィードで攪乱して、左肩のメイジを撃ち落とせば問題ないわ」
「やめとけよ、怪我をしたら大変だし、下手すると死んじまうぞ」
「だからって、見逃すわけにはいかないでしょう」
ルイズは意識を集中させて、シルフィードを呼んだ。
使い魔のルーンによって、主人と使い魔を繋ぐ特別なパイプを通じて、こちらに来るように、とメッセージを送る。
……が。
「……駄目ね、あの子、寝てるわ」
「は?」
「今度から、食事抜きのお仕置きをしないと……」
そこまで言ってルイズははたと言葉を止めた。
自分がさっきまで苛まれていた飢餓感は、辛く耐えられるようなものではなかった。
いくらお仕置きだとはいえ、食事抜きの罰を与えるのは、やっぱり酷いかもしれない、とルイズは考えを改めた。
そんなこんなをしているうちに、宝物庫をひたすら殴り続けるゴーレムの周りに、人が集まっていた。
明日はフリッグの舞踏会ということもあり、平時よりもずっと来るのが遅かったが、それでも色んな人が轟音を聞きつけてやってきた。
賊だ! などという声もあり、ゴーレムは殴り続けることを止めて、突然学園の外へと向かって歩き始めた。
追いかけるものもいたが、ゴーレムを操るメイジはその夜誰にも捕まることなく、消えてしまった。
宝物庫の壁は、ゴーレムの度重なる攻撃によって、ヒビこそ入っているものの、破られることはなかった。
翌日、学園内から有志を募り、ゴーレムを操るメイジ……恐らくは王国を騒がしている盗賊『土くれのフーケ』の捜索隊が結成された。