潜入工作員にとって、最も必要なものは情報だ。
己の体を鍛えることも大切だろう、強力な敵を打ち倒すには力がいる。
けれども、それも情報の前では大した意味はない。
そもそも潜入工作員は純粋な戦闘員ではない。
必要にかられれば戦闘しなければならないが、戦闘は戦闘員にやらせればいい。
情報というものは、戦闘しなければならない、という状況を作らせないためにある。
せつなとこのかの調教を一通り終わらせた俺は、次なるターゲット……『古菲』の情報を集めることにした。
この任務で最も苦労するであろうと予測していたせつなとこのか攻略は終わったが、まだまだ難関は存在する。
古菲はせつな攻略よりもまた別の方向性で捕獲しづらかった。
とかく情報が足りない。
一応、組織から渡された資料はあるにはあるが、こんなものだけに頼るようではやってられない。
相手を舐めてかかった場合、実害を受けるのは俺だからだ。
古菲は中国拳法に長けている、というのは、別に資料を見ずとも知っていることだ。
彼女……というかネギ・スプリングフィールドの受け持つクラスのメンバーは、この麻帆良学園内でも癖が強く、割と噂を聞く人間が多い。
その中でも古菲はそこそこ有名な方で、武芸に長けている、という話は男子中等部の方でもよく噂に出されることがある。
もちろん、飽くまで『一般人』レベルでの話だ。
実力でいえば、俺の方が高いはずだ。
拐かす段階で抵抗され、打ち負けるなどという無様なことにはならないだろう。
が、それでも厄介なことにかわりはない。
俺は今、敵地のど真ん中にいる。
そんなところで騒ぎを起こそうものなら、どうなるかは言うまでもないだろう。
なので、古菲を捕獲するときにはある程度策を練らねばならない。
策を練るためには、情報が必要だ。
行動パターンや交友関係なんてのも非常に重要な要素となってくる。
それで、だ。
百聞は一見にしかず、という昔の人が言っていたように、実際に目で見ることによって得られるものは多い。
幸い、俺は麻帆良学園男子中等部に所属しており、古菲はそんな俺でも行くことが出来る屋台でアルバイトをしている。
会おうと思えば、すぐに会うことができるってわけだ。
身支度を手早く済ませると、部屋に感知結界を施して、そのまま部屋を出た。
初めて屋台『超包子』に来たわけだが、中々繁盛している。
ここには魔法生徒や魔法先生がよく来る、ということで敬遠していたが、ここまで混んでいるのなら大丈夫だろう。
「肉まん二つ」
さりげない動作で屋台に立っている女に言った。
どこかで見たことがある、と思ったら、超鈴音だった。
ネギ・スプリングフィールドのクラスメイトで、天才だとか言われている。
ただし、麻帆良学園側からは問題生徒として認識されている。
ただの問題生徒ではなく、裏の世界に関わっている、とも言われている。
恐らくはご同業だと思われるが、そこそこ警戒していた方がいいだろう。
「お客さん、ウチを利用するのは初めてアルか?」
「ん、まあな」
超が声を掛けてきた。
俺の正体に気づいているのかいないのか、判断は出来ない。
まあ、この伏魔殿みたいな麻帆良学園に長いこと潜入し続けている俺が、そう易々と身分を見破られるとは思えない。
もちろん、油断は大敵だということを肝に銘じ続けていないといけないことも理解している。
「じゃ、今日は一個サービスしておくアル」
超は二つ肉まんを紙袋に入れた後、更にもう一つの肉まんを入れた。
……?
ちら、としか見えなかったが、最後に入れた肉まんは少し大きかったような気がする。
「どうも」
「ひょっとして、ウチの看板娘に釣られてやってきたアルか?
古菲は中々競争率高いアルよ?」
俺は口をちょっと尖らせた。
「まあな。ちょっと気になった、程度だけど」
気づいているのかいないのか、そんなぎりぎりな情報に微かに苛つきを覚える。
もちろん、それを表情に出してしまうような失態は犯していない。
飽くまで、普通にふてくされている、程度の不機嫌さは醸すくらいにしておく。
エドのいにっきがあれば、相手の心中を察するための小手先の技なんて使わなくても済むだろう。
だが、アーティファクトを剥き出しにして持ち歩くのは不味い。
今はいないが、ここは魔法生徒や魔法先生が来てもおかしくない場所だ。
見る人が見れば、エドのいにっきがアーティファクトだということがバレてしまう。
小銭を超に渡して、口の中で意味のない言葉をぶつくさ呟きながら、肉まんの入った紙袋を受け取る。
今から爽やかな青年を装ったって無理ってもんだし、中途半端になるくらいならちょっとアブなげな人間を演じていた方がいい。
そうしておけば、今度超に出会うことがあっても、どういったキャラを演じればいいのか非常にわかりやすいからだ。
そのまま自室に戻った。
途中、追っ手が来ている気配はない。
全く、古菲の観察に言ったのに、余計なもんに出会ってしまったな。
本来なら、向こうで食べてくるつもりだったんだが、家に帰らざるを得なくなってしまった。
紙袋に入った肉まんを、白い皿の上に置き、ナイフで真ん中に刃を入れる。
もちろん、英国式ハンバーガーの食べ方、などということをやっているわけではない。
超がおまけとして入れた、少し大きい肉まんの真ん中ほどで、ナイフの刃が何かに当たった。
うんざりするほどわかりやすく、切れ目のはいった肉まんを、ナイフとフォークで開腹する。
中に入っていたのはプラスチック製のカプセル……形状としてはカプセルトイのカプセルに似たものだった。
爆発物、ってことはないだろうが、念のために物理障壁を展開しつつ、そのままフォークとナイフでカプセルを開ける。
……。
爆発しなかった。
カプセルの中に入っているのは、一片の紙切れ。
魔力を感じないから、呪符やらなんやらではないだろう。
となると、考えられるのは……。
『午後六時、指定の場所で待つ』
ただのメッセージカードだった。
肘をテーブルに着いて、視線を天井の隅に寄せる。
このメッセージを出したのは言うまでもなく、超だろう。
メッセージを出せるとしたら、あの中華飯店の店員のみで、古菲は報告書によるとこんなことをするようなタマには見えなかったし、もう一人の店員は完全に白……ただの一般人だ。
彼女の背後になんらかの組織が動いているんだろうが、今のところその組織がどこに属するものなのかはわからない。
超の正体が知れたら、この誘いに応じるかどうかを判断しやすいのだが……。
相手の正体が掴めていないとはいえ、結局は出て行かざるを得ないだろう。
最悪なことに、あちらは俺が潜入工作員であることを、かなりの確率で知っていることが推測できる。
しかも、あちらは俺と同じ立場ではなく、要注意生徒に指定されているものの学園側についていそうだ。
それなら、魔法先生の適当な人間に、この春原ってやつはよろしくない人間アルよ、とでもいえば、かなりまずい状況になる。
もちろん、正体がバレてもなんとかなる可能性は持っている。
ただし、それは飽くまで最後の手段。
取り引きでなんとなるのであれば、それに越したことはない。
最後の手段というのは、自爆戦法だからだ。
やってしまったら後には引けず、それ以降の選択肢が極めて限られてしまう。
まあ、どちらにせよ超の情報は必要だ。
が、今のところ、俺が持ち合わせている情報源からは、超の有用な情報は得られそうにない。
学園側に指定されている要注意生徒は、調べきることができないほど数がいるわけではないが、全てにレーダーを張っておこうと思えるくらい重要な案件ではない。
つまるところノーマークだったわけだ。
それなら出るところに出て情報を得ればいい。
具体的には、超に『要注意生徒』というレッテルを貼っているところから、だ。
潜入工作員とはいえ、魔法を知っている尾行のプロに気づくのは難しい。
魔法使い、もしくは気の使い手ってのは、千里眼を所有している場合が多い。
信じられないほど遠いところから監視され、尚かつ気づかれないように気配を消す術を使われていればほとんどお手上げだ。
気配を消す術単発ならそれに対抗する術があるが、遠いところから見ているやつに気づくためには、効果範囲を広げなければならない。
そうなると、相手の魔力の多さ云々の前に物理的な距離という障壁が立ちふさがってしまう。
視線感知の魔法という手もあるにはあるが、町中で使うのはやめておいた方がいい。
特に人の多い学園都市なんかで使うと、頭の中でビープ音が一杯になってしまう。
尾行のプロが気にくわないんなら、相手をどうにかするよりも自分を変えた方が簡単だ。
尾行・監視されても問題ない行動しかしないか、わざと目立って囮になるかを上司に上申するか、もしくは最初から尾行・監視なんてものが付かないように振る舞うか、だ。
尾行・監視なんてものを撒くのは大変だが、逆に尾行・監視をさせるのは簡単だ。
肩の力を抜いてリラックスして、かといってだらけ過ぎず適度な緊張感を持つ。
まあつまり、『いつも通り』の行動を取ればいい。
そこから逃げたいのならば人混みへ、対決したいのならばしかるべき場所に行けばいい。
「ようやく追いつめましたわよ! 春原 タマ!」
「う、うおっ! お、お前はッ!」
人が不自然にいない学園都市の一隅で、俺はわざとらしく振り返った。
学園内をぶらぶらと散策している最中に、予定通り俺を見つけて、尾行してくれた高音だ。
高音はウルスラ女子高……まあつまり麻帆良学園女子高等部みたいなもんに所属している魔法生徒だ。
出身は本国、使う術は繰影術、性格は正義感が強く、ややエリート志向がある。
そして、俺にとっての麻帆良学園で怒る魔法関連の情報のキャッシュディスペンサーでもある。
「ククク……尾行されていたことには気づかなかったが、返り討ちにしてしまえばいいこと!
この俺様に関わったことが、貴様の運の尽きだ、グッドマン!」
「ふっ、このワタクシがあなたのようなものに負けるわけがないでしょう。
正義の裁きを受けなさいッ! 卑劣漢!」
なんだか自分で演じていてバカバカしく思えてくるが、これが必要なことなのだ。
高音に対してはのどか達に施した、契約暗示は埋め込んでいない。
契約暗示のデメリットとして、深度の精神探査をされると逆探知されてしまう可能性がある。
深度の精神探査をされたとき、自動的に魔力を解放して爆発するような仕組みを構築することもできるが、術式が複雑すぎて時間がかかってしまう。
複雑になるのは致し方ないことだ。
ほんの少しの動揺で爆発されてしまったら困るので、厳密な定義付けが必要で、その定義付けで複雑になるとバグが発生しやすくなり、そのバグを防ぐために二重三重のケアが必要で……と雪玉みたいに次から次へと埋め込むことが増えてしまうからだ。
そういった問題があるので、麻帆良学園側の情報源の高音には敢えて、契約暗示を与えなかった。
のどか達に契約暗示を埋め込んだのは組織のそういう命令だった。
彼女らに洗脳を施していることがバレた場合、一蓮托生、という覚悟を持って洗脳を施している。
高音には今の時点で契約暗示を行えるくらいの洗脳深度があるので、大抵の命令は送ることが出来る。
ただ、契約暗示無しで継続して洗脳し続けるにはそれなりの手順をふまえなければならない。
要するに、高音が望んでいる展開を一部再現してやらねばならないのだ。
高音は正義感が強く、名誉欲も強い。
なので、俺が悪、高音が正義というわかりやすい状況を作り出してやって、テンションを高め、洗脳深度を深める必要がある。
一回か二回くらいはやらなくても大丈夫だろうが、土壇場で洗脳を振り切られると洒落にならないので、毎回やっている。
「繰影術ッ! 十七体の使い魔を同時操作し、攻守共に完璧な術ですわよッ!
これにあなたは勝てるかしら!?」
「ふん、なんだと思えば毎度毎度変わらないつまらん魔法ではないかっ、そんなものこの俺様に通用すると思っているのか?」
今では余裕であしらうことが出来るが、初見は本当にどうすればいいかわからなかった。
エドのいにっきを用いて誘導し、打ち負かして洗脳するというプランを立てたはいいが、影の使い魔を撃退してもすぐに再生するし、本人を攻撃してもガードされるし、あと少しで本当にやられるところだった。
一般生徒がたまたま近くにいたのを感じて、彼女を人質にして高音に投降させなければ確実に負けていた。
高音の影から飛び出してきた影の使い魔の攻撃を、横っ飛びで避ける。
同時操作しているとは思えないくらい、個々の使い魔は連携攻撃をしてくるが……。
「それでも尚、動きは鈍いッ!」
四匹同時に攻撃を仕掛けてきたのに対し、俺は地面を蹴って宙に飛び上がった。
そのまま飛べば、更に数メートルの高さを飛ぶことになり、落下時の隙を狙われてしまう。
空に向かって携帯用の杖を延ばし、さっきまで充填しておいたサギタマギカを放つ。
反動で上昇が止まり、それなりの速度で落下する。
「なッ!」
そのまま落下し、さっき俺に攻撃を仕掛けてきた使い魔の2体を下敷きにする。
息もつかさずに、残り2体のうち1体に次のサギタマギカを無詠唱でたたき込み、もう片方の方は普通のナイフを仮面に突き刺した。
「うおおおおおおッ!」
ナイフが刺さった使い魔の胴体に飛びつき、そのまま持ち上げる。
他の使い魔達の攻撃を避けながら、ナイフの刺さったままの使い魔を抱えて、高音に飛びかかる。
この使い魔は高音の影を媒体として魔力を帯び、物理的な質量を得ている。
なので、影は影へと元に戻してやればいい。
「……ッ! させませんわッ!」
高音も俺が何をしようとしているのかわかっている。
何度も何度も高音とは戦っているのだから。
が、そんなことは関係ない。
エドのいにっきのページを片手で開き、高音に向けてただ一言『動くな』と指令を与えてやればいい。
あとはもう、トントントンと事は進む。
高音の影にめり込んだ使い魔を足で踏んづけながら、露払いしてやれば、影の使い魔は再生できずに溜まっていく。
高音の戦闘力はほとんど影の使い魔に依存しているので、使い魔だけを封じてやれば詰みだ。
逆に言えば使い魔をどうにかする手段がないと中々強敵なのだが、相手に有利なフィールドで戦い続ける必要はないわけだ。
「くぅっ! ま、また負けてしまいましたわ……」
がっくしと高音は肩を落とした。
こちらとしても変に抵抗してくれなくて助かる。
今回はのどか達と違って、魔法球の中の世界ではない。
時間は普通に流れているし、人に見られる危険性もある。
とはいえ、今、俺がいる場所は学園内で不自然に出来た空白地帯だ。
麻帆良学園は世界各地に、魔法という存在を気づかせなくする超広域認識阻害魔法の拠点だ。
どこらへんから放射されているのかはわからないが、麻帆良学園だけで関東全域に認識阻害魔法の影響を及ぼしている。
普通、認識阻害魔法はその威力が距離に依ることはないが、ここ、麻帆良学園はその特異性から若干強い認識阻害の魔法がかけられている。
具体的に言えば、濃密な魔力に満ち、不可思議な構造を持つ図書館島なんかは、強烈な認識阻害がなされている。
一方、麻帆良の大学工学部なんかは超科学という分野が発達し、中には魔法という存在を気づいて尚研究をしている人間がいるせいか、認識阻害は薄くなっている。
薄くしている必要というのは、安全に関する理由からだろう。
認識阻害の魔法というのは善し悪しで、実際に魔法というものが誰かに害を及ぼすときでも効力を発揮し、本人が気づかないまま大怪我を負う、なんてことがある。
なので、いざというとき緊急避難が出来るくらいレベルにとどめておかないと危ないらしい。
といった、普通の環境ではありえない狭い地域で、認識阻害魔法の濃い、薄いという頒布があるせいか、麻帆良学園内にいくつもの空白地帯が存在する。
人払いの術と透視が不可能な薄い結界みたいなものに覆われていて、一般人はもちろん近づくことはできないが、魔法使いでさえその中に何があるのか、は実際にその中に入らないと何があるのかわからない。
実際、この空白地帯は麻帆良に潜入する色んな組織の工作員が利用しており、そして麻帆良側はその空白地帯を理解して、平時のときでも定期的に魔法生徒や魔法先生が巡回している。
ちなみに、今、俺がいる空白地帯は、高音の担当地域なので他の人間に見つかることはまずない。
とはいえ、見つかる可能性がゼロではないので、なるべく手早くことを済ませる必要がある。
「さて、いつも通り、俺の質問に答えてもらおうか」
自分自身が洗脳されているということを自覚していることは望ましくない。
だから、自分があたかも最初から自分の意思で動いているかのように思わせるのが肝要だ。
契約暗示までこぎつければ、ほぼ全ての意思をこちらが掌握できるので問題はないのだが、そうでない場合には、被洗脳者には飽くまで自分の意思でもって動いていると思って行動してもらいたい。
自分自身の行動に疑問を持たせないための洗脳、というものもあるが、対象者の心情などに沿った形で一部の認識の変更を変えるやり方の方が、対象者の根本から書き換えるようなものよりも簡単だ。
今回の場合は、今やった『勝負』に勝ったら、俺の望む内部情報を渡す、という書き換えをしている。
逆に負けたら、俺が麻帆良学園の組織に投降する、という条件があるが、まあ、これはいざとなったら適当にエドのいにっきで無かったことにできるので、実質ノーペナルティみたいなもんだ。
そもそも、今となっては高音に俺が負ける要因が一つもないのだから、心配していない。
「くっ……」
高音は悔しそうに顔を背けた。
反抗的な態度をとっているが、問題ではない。
彼女の性格ゆえに、俺という悪に負けて屈することは許せないが、それ以上に俺との約束を反故にすることはあり得ない。
もちろん、エドのいにっきでそういう風にしている、というのもあるが、元来の生真面目さ故に背けない。
「まずは、超鈴音に関する情報だ。
麻帆良学園でどのような生徒として認識されているのと、その出自など、わかっていること全てを教えてもらおう」
今現在、高音の持っている情報はごく些細なものだろう。
それが役に立つかどうかはわからないが、詳しく調べるためには時間が足りない。
ただ、聞くこと自体に意義がある。
超が要注意生徒に指定されているのがブラフで、学園側が俺を嵌めようとしているかどうかは最低確かめられる。
「ふむ、なるほどなるほど、よくわかった」
「……超鈴音の情報なんて聞いて、どうするのですか?」
高音から引き出した情報によると、学園側が仕込んだ罠ではなさそうだ。
あまりその線での疑いはしていなかった。
そもそも俺が捕まえにくいのは、隠れ潜む術と情報力によるものだ。
俺が潜入工作員であるとバレているのならば、そもそも力づくで捕まえようとするだろうし、今回のようにまどろっこしい方法を取ったら逆に逃げられる可能性の方が高いわけで。
「別にお前には関係ないだろ」
それはそうと高音に対しては素っ気ない言葉を返しておく。
さっきまでの演技がかった口調ではなく、今度は年相応の……高音より年齢が三つくらい低い子供のような振る舞いだ。
「……関係ないわけないでしょう! あなたのやっていることは犯罪なのよ!」
適当に聞いた話だが、コマシヤクザは自分の女が気にくわないことをしたら、腹などの跡が残りにくい部位を殴るらしい。
殴るだけなら普通の人間でもよくやることだが、コマシヤクザはその後、びっくりするくらい女にすがりつくんだとか。
そうすることによって、殴られて意識が朦朧となり、正常な判断が取れなくなったところで、母性本能が刺激される。
「……わかってるさ。わかってるともッ!
俺がやっていることが、悪いことだなんて……だったら、どうしたらいいって言うんだよッ!」
「……」
さっきまでの、正義VS悪の構図を描いたのは、高音主体の洗脳ケアだとすると、今度は俺主体による洗脳のケアだ。
「組織に背いたら殺される……俺だけが殺されるんなら別に問題ない。
けど、俺の妹も……俺のたった一人の家族の愛衣すらも……」
愛衣というのは高音の後輩……と同名の俺の妹という設定の架空の人物だ。
さっきの正義VS悪で演じていたステレオタイプな悪役とは違って、今の俺は異能に目をつけられて両親を殺した組織に妹を人質に取られて、嫌々潜入工作員としての活動を強いられている悲劇のダークヒーローを演じている。
高音は秩序を重んじる。
組織志向の性格をしているのだが、まだその若さ故に自分の理想と現実との間に立ち塞がる壁に悩みもしている。
なので、俺という組織に属しているものの、その組織の軋轢によって潰されそうになっている人間に対して共感を覚える。
もちろん、高音が麻帆良学園に悪感情をいだいているわけではない。
けれども、完全に満足しているわけではない。
その完全な満足なんてものは、人の欲望が底なしであるように、この世に存在しない。
完全な満足が存在しない、ということがまだ理解できていない若い高音が悩み苦しんでいる隙に付け込める。
俺が演じるダークヒーローには、高音の感情のごく一部が似通っている。
その似通っているところだけを、高音は切り取り、あたかもダークヒーローが自分と立場が違うだけの相同であると思い込む。
共感は同情を生む……実質は自己愛だが……同情は信頼を生む。
ほとんどの人間に言えることだが……特に女は……なぜだか物事を自分の都合のいい面だけを切り取ろうとする。
だったら、都合のいい面だけを見せて差し出せば、たとえ、中身が腐っていても受け取ってくれる。
嘘泣きの嗚咽をしていると、高音が背後から俺を抱きしめてきた。
もちろん、この演技を初めた最初のころはこんなことはされなかった。
少しずつ外堀を埋めていって、今のようになっている。
「大丈夫……いつか、いつかなんとかなりますわ」
「慰めなら、やめてくれ」
「慰めなんかじゃありませんわ!」
「じゃあ、どうしたらいいっていうんだ! どうしたら妹を助けられるッ!
どうしたらッ……俺はこんなことをしなくてすむようになるんだッ……」
そんなことは知っているわけない。
俺だって知らないし(作り話だから)、ましてや高音なんかが知るわけがない。
けれど、高音は「どうしようもありませんわ」なんて言わないし、根拠もなく「どうにかなります」と言う。
俺はただ震えた。
その震えが、不安や悔恨を表しているのだと、勝手に高音は解釈してくれる。
高音が俺を抱きしめる腕に力を込める。
そろそろいいか、と思って俺は体を引き剥がす。
恐らくは、高音は少し残念に思っているだろう。
俺の境遇をどうにも出来ないことに無力さを感じているのだろう。
だからこそ、俺に何かしてやりたい、という気持ちが生まれる。
「すまない……俺を、俺を許してくれ……」
今度は俺から高音に抱きつく。
抱きつく、とはいうものの、精神的にはしがみついているような感じだ。
俺の腕に高音がすっぽり収まるような、そんな格好ではあるものの、主体は主に高音にあるように錯覚させる。
震える声で、か細い心で、高音を包み込む。
「……きっと……なんとか、なりますわ」
高音はそんな俺に無責任な言葉を告げる。
彼女自身もどうにもならない、ということはわかっている。
何もできないから、せめて俺を慰めてやろう、と思っている。
そのため、高音は俺を拒まないし、そもそも高音自身も俺を求めるようになっている。
恋は盲目とはよく言ったもんだ。
高音も俺の背中に手を回し、弱い力で抱きしめ返してきた。
ここまで信頼を勝ち取れれば、洗脳深度も安泰だろう。
時間があったら、『いつも通り』のことをするのだが……今はあいにくそれほどの余裕はない。
のどかやゆえ、せつなにはなく、このかも及ばない感触をせめて少しだけ味わってから……ふにふにとしたものを衣類ごしに触れる程度にしておこう。
さて、この後は、いよいよ超に対面……準備は怠らずにしておかないと。