第二話 はたしてこのせんせいいきられるのか?


「あのー、すんません」

 才人はそれから半時間もの間、広い寮の廊下を彷徨い続けていた。
 流石に自力で現状を打開することは不可能だと思い、才人は遂に助力を求めた。
 たまたま出会ったのは、赤い髪をした、褐色の肌の女の子。
 この子も生徒の制服を着ているが、その胸元は、中身がはち切れんばかりに膨らんでいた。

「何かしら」
「えっと、道に迷っちゃいまして、ちょっと聞きたいんですけど」
「あなた、確か、あのゼロのタバサがサモン・サーヴァントで喚びだした平民?」
「そう、らしいです。そのゼロのタバサの部屋に行きたいんですけど……」

 才人は胸に視線を行かせるのを止めることができなかった。
 反則気味というべきか、才人が呼びかけた女の子は、先ほどの桃色の髪の子に並ぶとも劣らぬ容姿をしていた。
 特に意識して声をかけたのではない。
 が、やはり胸に視線が行ってしまう。

 あまりじろじろ見ていると、相手に悪い印象を与えかねないと思い、才人は努めて他のものを見ようとした。

「きゅるきゅる」

 そしてその『他のもの』は色々とインパクトのあるものだった。

「うわぁ! 真っ赤な何か!」

 床には巨大な赤いトカゲがいた。
 『サラマンダー』だ。
 赤い髪の子の背後からにゅうっと顔を出し、才人の足下にするすると歩いていた。

「あなた、火トカゲを見るの初めて?」
「え、ええ、まあ……」

 才人は直ぐに心拍数を戻そうと試みた。
 今までに、元の世界には絶対いないと思われる生き物を何度か廊下で見たが、ここまで巨大なものは初めてだった。
 全長は大体人の身長ほどの、燃えるような……実際一部体が燃えている、巨大トカゲだ。

 突然、足下に現れたため、思わず驚いてしまったが、見慣れてしまえばどうというものではない。
 恐ろしい生き物であれど、使い魔なら、主人が命令しない限り無差別に襲ったりしないのは、コルベールから聞いていた。

「……ふむ、よく見てみるとかっこいいな」

 才人も男の子である。
 燃えているトカゲは、恐ろしくあれど、しかし同時にかっこよくも思えた。

「火、吹いたりするの?」
「吹くわよ。それはもう情熱のような真っ赤な火を吹くわ」
「へー、触っても、いい?」
「いいけど、尻尾の方は火傷がしたくなかったらやめといた方がいいわよ」
「わかった」

 才人はおずおずとした手つきで巨大な爬虫類に手を伸ばした。
 頭の赤い皮膚に触れると、熱を感じる。

「あったかいな。爬虫類って変温動物だけど、こいつは日光とかあんまり必要なさそうだな」
「まあね、あんまり寒いところに行かせちゃうと体調を崩しちゃうけど、自ら熱を発しているから普通の寒さは耐えられるわね」

 才人は段々大胆になり、ただ触れるだけではなく、頭を撫でてやった。
 サラマンダーは気持ちよさそうに、きゅるきゅると喉を鳴らし、目を細める。
 猫みたいだな、と才人は思った。

「あら? フレイムがこんなに懐くなんて」
「フレイム?」
「この子の名前よ、似合ってるでしょ」
「そうだな、真っ赤だし、暖かいし」

 使い魔同士、妙なシンパシーでも働いたのか、サラマンダー=フレイムは才人に顔をすり寄せた。
 自ら体をなすりつけたり、喉を鳴らしたりして、撫でられるのを懇願したりしている。
 口を開いて舌で才人の頬をなで上げる。

「うぉぁちっ!」

 サラマンダーの唾液は高温である。
 それを頬に塗りたくられた才人は、もんどりをうって転げた。

「あっはははは」

 赤い髪の子は、そんな才人の様子を見て腹を抱えて笑った。
 フレイムは倒れた才人にのしかかり、更に舌で顔を舐めまくる。

「熱いッ! 熱い、やめ、熱いってやめろ、この、フレイム! ほんとマジ火傷するから!」

 才人は本気で抵抗していたが、フレイムは止まるところを知らない。
 圧倒的な重量で才人を地面に押しつけて、身動きを取れなくさせ、腕で防ぐことすらできない無防備な顔を舐めていく。
 その横で、赤い髪の子は腹を抱えて、大笑いをしている。

「ちょ、ちょっと、笑ってないで助けてくださいって……あつっ!」
「くくくくく、ごめんごめん、こら、フレイムやめなさい」

 赤い髪の子がフレイムの頭を軽く叩くと、フレイムはきゅるきゅると悲しげに鳴いて、才人の体から離れた。
 余程熱かったのか顔を真っ赤にし、べたべたをパーカーの袖でぬぐいながら、才人は起きあがった。

「ごめんなさい、でもあんまりおかしかったものだから……」

 赤い髪の子は口元を手で押さえて、今も少し息を詰まらせていた。
 顔をぬぐっている才人がジト目で見つめていることに気が付くと、わざとらしく咳払いして笑いを止める。

「私、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプトー、キュルケって呼んで頂戴。あなたは?」
「え? あ、お、俺は平賀才人。才人でいいよ」
「ヒラガ・サイト? 変わった名前ね」
「そらまあ……」

 才人は、あんたのやたら長い名前よりかはマシだよ、と思った。
 心の中のことなどおくびも出さずに、愛想笑いを浮かべる。

「中々変わった人ね、あなた」
「そうかな?」
「そうよ。平民なのに使い魔だったり、そんな見たこともない服装。
 おまけにうちのフレイムをあっというまに魅了しちゃってるのに、変わってないって言うつもり?」
「ふっ、服装はところ変われば品変わるって言うだろ。俺のいたとこではこれが普通なの!」
「郷に入りては郷に従え、とも言うわよ」
「今日突然連れてこられたばかりなんだから、着替えなんてなかったの」
「あらそう」

 とはいえ、才人は着替えがあったとしても着替える気はなかった。
 まだこの異世界に来てから一日も経っていない。
 ごく短時間で彼の価値観に多大な影響を与えたといえど、服装まで魔法使いの格好を真似する気にはなれなかった。
 もっとも、彼は平民であるから、そのような格好をさせられることはないのだが、才人はまだそれに気付いていない。

「それで、タバサの部屋を知りたいんでしょ? この塔じゃないわ、向こうの塔」

 赤い髪の子=キュルケは窓から見える塔を指さした。
 日が暮れたこともあり、塔のあちらこちらから光が漏れている。

「あの塔の、確か五階だったわね。わざわざ違う塔のこんなところまで登ってきてご苦労様」

 キュルケは才人の肩をポンと叩いた。
 結構な数の階段を上り下りして、足に疲労を溜めていた才人は、その勢いもあってかがっくりと肩を落とした。
 もうそろそろ到着するころかと思ってたのに……と、才人は涙する。

「早く行った方がいいわよ。
 ここの塔には、やたらがなりたてる桃色の髪の子がいるから、見つかったら大変なのよ」

 桃色の髪の子、才人はさっきの子を思い出す。
 確かにがなりたてていた。
 結局、真っ赤な顔して逃げていってしまったけれど。

「ああ、はい、わかりました……」
「じゃねー、タバサによろしく。まあ、私はあの子嫌いなんだけどね、何考えているのかわからないし、無視するし」
「はあ、すんません……」

 才人は、なんとなく頭を下げた。
 この世界に来て才人の会った人達は、大なり小なりキュルケと同じ感想を抱いている。
(マルトー親父は例外で桃色の髪の子はそもそも無視していた)

「別にあなたが謝ることじゃないわよ。むしろお気の毒様、と言わせて貰うわ」

 キュルケは少し困ったような笑みを浮かべ、才人の肩を二度軽く叩いた。
 そのまま踵を返し、足下のフレイムに声をかけて、才人から離れていく。
 フレイムは興味深げに、落胆している才人を見つめていたが、少し遅れてキュルケの後を追っていく。

「じゃねー」

 途中、キュルケは振り返り、才人に向かって軽く手を振った。
 才人も少し引きつった笑みで手を振り返す。

「貴族にも色々いるんだなぁ……っつっても、数人しか知らないけど」

 才人は手に持っていた地図を丸め、ポケットにつっこんだ。
 くしゃり、という音が寂しく聞こえる。
 キュルケの後ろ姿が見えなくなったところで、才人も元来た道を引き返していった。







「さぁてね……」

 才人はようやくタバサの部屋の前に到着した。
 今度は積極的に人に道を尋ね、確信を持って部屋の前に立っている。

 このドアの向こうに、あの人形みたいな子がいる、と考えると才人の心臓は早鐘を打った。
 生者の気配を全く感じさせない瞳を直視したことが余程才人にはこたえていた。
 意味もなくドアの前でうろうろ歩き回ってみたり、ドアノブを握っては放してみたりしてドアを開けることを引き延ばす。
 今ひとつ踏ん切りがつかなかった。

 第一、使い魔になったという実感が、まだ才人にはない。
 理解はしている。
 この世界が魔法の存在している世界で、そういう慣例があることを、理解はしている。
 しかし、物質的な現代日本の寵児である才人が、そのことを無条件に受け入れられなかった。

「ん〜……」

 鼻の頭を爪の先で軽くひっかく。
 踏ん切りのつかない自分に、才人は軽く嫌悪感を抱く。
 いくら入りづらいとはいえ、いつまでも廊下にいるわけにはいかないのだ。
 使い魔になった以上、どんなに不満を覚えてもタバサに仕えて日々の糧を得なければならない。
 そのためには廊下でいつまでもうろうろせずに、部屋の中に入り、タバサと声を交わさなければならない。
 わかってはいる。
 わかってはいたが、中々踏ん切りがつかなかった。

「えーい、ままよっ」

 遂に才人は一念発起し、ドアを力強くノックをする。
 乱暴に叩いた分だけ、ドアは乱暴な音を発した。
 中から返事はない。

「ここ、タバサさんの部屋ですか? ですよね?」

 返事がなかったために、大きな呼びかけた。
 それでも、中から返事はない。

 ……。

 才人は再び頭を抱えた。
 あの無口な少女であれば、返事をしなくても何の不思議もない。
 しかし、完全に確認が取れていないのに部屋に入るのはどうだろうか、と。
 もし別人の部屋だったら、才人にとってあまり好ましくない運命が待ち受けている可能性が高い。
 無人であれば問題はないが、就寝していた場合、あらぬ誤解を受けるのは明白だ。

「あら? あなた、そこで何をしているの?」

 そこへ、タイミングよく女子生徒が通り、才人の存在に気が付いて声をかけた。
 長い金髪にロールをかけて、おでこが大きく露出している生徒だった。
 才人は少々動揺しつつ振り向く。

「えっと……この部屋がタバサって人の部屋かなぁ、と確かめようとノックしたんだけど、何の返答もなくて……」

 ここが女子寮だからかばつ悪く感じ、少しどもった声で言った。
 女子生徒は探るような目つきで才人の姿を上から下へと見ていたが、やがて才人のことを思い出したのか、大きく頷いた。

「思い出した。あなた、今日召喚されてたタバサの使い魔ね。そう、そこがタバサの部屋よ。
 でも、あの子極端に無口みたいだから、いくら呼びかけたって返事はしないわ」
「ああ、やっぱり」

 才人は溜息をついた。
 このドアを境にして向こう側に自分の主人がいる。
 その主人は誰に対しても無口で、不干渉。
 これから長らく世話にならなければならないのに、そんな人相手にやっていけるのか、と才人は不安を感じていた。

「ちょっと待っててね、内側から鍵が閉まってると思うから」

 髪をロールした子は、マントの中から杖を取りだし、先端でドアノブを軽く叩いた。

「アン・ロック」

 髪をロールした子が呪文を唱えると、かちりという音と共に鍵が外れた。
 才人は目を見張った。
 鍵を掛けられていたことを確認していなかったのだが、確かに鍵の外れる音を聞いた。
 空を飛ぶ人やコルベールが何もないところから火の玉を出すのを見ていた才人だが、やはりまだ魔法を見せられると必要以上に驚いてしまう。
 才人は驚いている反面、目の前の子が魔法を使っていとも簡単に鍵を開けたところを見、この世界での鍵の信用度は低いんだな、とやや冷静に物事を見てい た。

「タバサはロックが使えないから、私でも容易に鍵を外せるのよね」
「あ、ありがとう」
「これくらいはなんてことはないわ」

 髪をロールした子は、この後人と会う約束をしている、と言って、その場から立ち去っていった。
 また再び、廊下に一人残された才人。
 助けてくれた親切な人の背中が完全に見えなくなるまで見送ってから、ドアと向き合う。

 胸一杯に空気を吸い、ゆっくり吐き出すとドアをじっと見つめた。
 やや緊張した面持ちでドアノブに手をかけ、そのまま横に捻る。

 ドアに鍵がかかっている感触はなく、押せば大した力も必要とせずに部屋の中と廊下が繋がった。

「失礼しまーす」

 声を潜めて言う。
 どうせ、大きく言ったって小さく言ったって、そもそも何も言わなくたって、主人が何も気にしないのはわかっている、と才人は開き直り、部屋に踏み入っ た。
 ランプの淡い光が照らす部屋の中央にタバサはいた。

「……」

 タバサは部屋に入ってきた才人に目もくれず、ランプの光を頼りに本を読んでいた。
 最初はタバサに視線を奪われた才人だったが、すぐに部屋を見回し始めた。
 タバサの部屋にあるものは、安物のクローゼット、本が詰め込まれた棚、小さなベッド、ぼろいテーブルと椅子。
 たったそれだけ。

 才人は目を疑った。
 仮にもタバサは貴族と聞いている。
 しかし、この部屋が才人のイメージとはあまりにもかけ離れていた。
 やたら本だけはあるが、家具はほとんどがお粗末な代物で、やはり貴族の部屋には見えない。

「……」

 部屋にはタバサの本のぺージをめくる音のみが存在していた。

 部屋の外の音は聞こえてこない。
 音が入り込まない魔法が建物にはかけられていた。

 才人とタバサの両者、どちらも沈黙を崩さずに時間が流れるままにしていた。

 才人はタバサをまじまじと見た。
 ランプの光によって闇の中から浮かび上がるタバサの白い顔は、何故か才人に幼いころ読んだ絵本の魔女を彷彿させた。
 タバサの顔には皺一つもないが、ランプの光のゆらめきが、タバサを皺の寄った老婆に見せた。

 才人の喉が唾を飲み込んだ音をたてる。
 足がほんの少し震え始めた。

「……」

 非常に居づらい……才人は、現状を打開するための方針をいくつか立てようとした。
 ここまで行動の極端な人物は才人は今まで見たことがなく、とりあえず当たり障りのないところから始めることにした。

「な、何の本を読んでるのかなあ……」

 まずは、コミュニケーションを取ってみることをした。
 相手も人間、こちらも人間、人間ならば言語が通じる、言語が通じればコミュニケーションができる、という単純な発想の答えである。
 宇宙人とコンタクトをとるように、慎重に慎重にイントネーションを大切にして、言葉を発する。

「……」

 それでもタバサは完全に無視していた。
 明らかに聞いているはずなのに、言葉も返さず、関心も示さない。
 一瞬、タバサは声が聞こえていなかったのかと才人は思ったが、適度な音量で発声した以上それはなかった。
 それでも念のため、もう一度才人は声を掛けた。

「おーい、聞こえている?」

 負けじと才人は呼びかけたが、返答はない。
 段々とタバサに声を掛けることが『無駄な行為』と思い始めた。
 外聞と第一印象通り、どんなに話しかけたとしても無視されると思い、ついに努力を放棄することに決めた。

 やれやれと溜息をつき、いきなりコミュニケーションをとる前に、まず情報を集めることにした。
 声をかけるのは一旦やめ、タバサの様子をもう一度よく見直してみる。

「敵を知り、己を知れば百戦危うからず、ってな」

 口の中だけで響くような小さな声で呟いた。
 ランプの明かりを頼りに、タバサの様子を見る。

 タバサは、小さかった。
 他の同級生達と比べてみても、明らかに低すぎる背。
 確かに彼女のクラスの中では、一番低い年齢ではあったが、それでも実年齢とは2、3歳ほど差がある体をしている。
 タバサは、ちょっと力をいれたら折れてしまいそうなほど細い指で本のページをめくっている。
 ランプの明かりが、おどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。

 才人はタバサを観察していたが、しばらくすると馬鹿馬鹿しく思えてきたので、目を逸らした。
 外見から得られる情報は、どれもこれも『不気味』としか思えないものだけ。
 今後の関係をよりよいものにするために使えそうなものは何も手に入らなかった。
 それでもしばらく才人はタバサの部屋にいたが、両者の間には相変わらず沈黙しか存在しない。

 タバサのあまりの無視っぷりに耐えられなくなり、才人は音を立てないように部屋を出た。
 無言のプレッシャーから解放され、部屋から出て才人は大きく溜息をつく。

「やっぱり……」

 誰に言うこともなく呟く。
 一度、部屋のドアを振り返って見た後、才人はあてどなく塔の中を歩き始めた。








 才人は塔の屋上に来ていた。
 ここ、トリスティン魔法学院では、空を飛ぶ魔法≪フライ≫を使うものが多くいるので、塔の屋上は出入りが可能になっている。
 才人は、ひんやりとした石の床に大文字になって横になっていた。
 ただぼんやりと夜空を見上げている。

「異世界、かぁ……」

 異世界においても、空は地球と同じだな、と才人は思った。
 辺りに明かりが少なく、そして空気が綺麗なために、才人の住んでいたところよりも、もっと多くの数の星が見ることができた。
 子どもの頃、親に連れられてやったキャンプ場の夜空を思い出しつつ、才人は空に向かって手を伸ばす。

 空に浮かぶ無数の星と、それらを支配しているかのように煌めく二つの月。
 片方は赤く、片方は青い。
 なんとなく手を伸ばし、握ってみればそれが捕まえられるような気がした。
 実際にやってみても、もちろん掴めない。
 何度繰り返しても、掴めない。

「……母さん」

 空に向かってのばした手を、うろんげに床に落とした。
 目をつぶると、涙がこぼれる。
 才人はまだ十七歳。
 そして『もう』十七歳。
 全てを捨て去るには、達観できるには早すぎて、人生を生きるたびに増える持ち物の数が多く、遅すぎた。

 元の世界に戻ることは完全に不可能ではないだろうが、それでもそれが見つかる確率は極少。
 コルベールから聞いた話が、今になって重く心にのしかかってくる。
 才人は周囲に流されやすい性格で、順応力も高かったが、しかし、十七歳の少年がそう簡単に割り切れるわけがない。
 一人になったときに、どっと感情があふれ出てきた。

 しかし才人は耐えた。
 涙も、目をつぶったときに数滴溢れただけ。
 意地というか矜持というか、才人はとにかくなんらかの信じるものがあって、感情の高ぶりを押さえつけた。
 あるいは虚勢だったのかもしれなかったが、この世界で生きるためには、少なからず虚勢が必要だった。

 心が石になるようにと、才人は祈る。
 この先に存在するどんな障害にも、歯を食いしばって耐え抜く覚悟をした。
 腹の下に力を込め、深く息を吸う。

 もう才人は大丈夫だった。
 ゆっくり目を開く。
 時折吹く穏やかな風が、才人の頬を撫でる。
 涙が伝った後がひんやりとし、心地よく感じられた。
 上半身を起こして片手で支える体勢で、首を後ろに倒す。

 呆然と空を見る。
 相変わらずの星空。
 赤い月と青い月。

 ふっ、と、何かが月を横切った。

「……まさか、な」

 鳥か何かだろうと才人は思い、月に映った影を見た。

「うわ、すっげ……」

 それはドラゴンだった。
 青い鱗に覆われた、翼の生えた爬虫類のような生き物。
 才人のいた世界では架空の生物とみなされている。

 今日一日で、サラマンダー=フレイムやその他の空想の生き物を多々見てきたが、ドラゴンを見た感動はそれの比ではない。
 今まで落ち込んでいたことなど忘れ、その場から立ち上がって、空を見上げる。

 ドラゴンは悠々と空を飛んでいた。
 翼を大きく上下に揺らし、まるで水の中を泳ぐイルカのように宙に浮いている。

「きゅいきゅい」

 空の彼方からドラゴンの鳴き声らしいものが聞こえてきた。
 才人は、口元に笑みを浮かべる。

「声までイルカみたいだな」

 ドラゴンは才人に見られていることに気付いているのかいないのか、ただ空をひらひらと飛んでいる。
 くるくると回りながら、高度を上げたり、下げたりを繰り返していた。

「……あの体格で、どうやって飛んでるんだろうなあ」

 それは幻想的な光景だった。
 文字通り、ここはファンタジーの世界。

 空に浮かぶ二つの月。
 空で泳ぐ青い竜。

 普通に生きていたらまず見られなかった光景に、才人は嘆息する。

 ドラゴンは空の散歩を十分楽しんだのか、旋回しつつ高度を下げていた。
 段々と才人のいる塔にも近づいてきて、少し離れたところを高速で通過していく。
 ちょっとした風圧を感じ、よろけたが、そのまま立ってドラゴンが学院の中庭に不時着するのを見続けた。

 ドラゴンは青い鱗に覆われた翼を小刻みに羽ばたかせ、大きな音をたたせずに地面に足をつける。

「ん?」

 塔の端から顔を出して下を見ていた才人は、ドラゴンの上に誰かが乗っていたことに気が付いた。
 ドラゴンが自分の上空にいたときには気付かずに、上から見下ろす形になって初めてその存在が確認できた。
 月の明かりだけでは、上に乗っている人物の様相はわからない。

「すげーなあ、ドラゴンライダーってやつか」

 才人はあの自由自在に空を飛んでいたドラゴンの上に人がいたことを知り、唸った。
 ドラゴンは本当に自由気ままに空を飛んでおり、上に人が乗っているような素振りを何も見せていなかった。
 だからてっきり才人は人が乗っていないのかと思っていたが、実際には乗っていた。

 あの機動を見せたドラゴンに乗って、一度も落ちなかったことに対して、あの騎手は余程の手練れなのだろう、と才人は思った。

「ああ、俺もあんなのに乗れたりするのかな」

 目をつぶって、自分がドラゴンに乗っている姿を夢想した。
 今まで飛行機にすら乗ったことのない才人には、空を飛ぶという行為は全くの未知の領域だったが、とても気分のいいものだろう、と才人は思った。
 雲の中に突っ込み、何もかもが小さく見えるほどの高さで地上を見下ろす光景を思い浮かべ、才人の心は躍った。

 そんなことをしている間に、ドラゴンの上に乗っていた人物はどこかへと立ち去っていた。
 同時にドラゴンは、再び羽ばたき始め、宙に浮かぶ。

「きゅいきゅい」

 またもやドラゴンは鳴き声を発し、首を空に向けて、離陸する。
 今度はもっと才人のいる塔の近くを飛び、あっという間に空の彼方へと飛び去っていく。

「るーるる、るーるる」

 ドラゴンは、今度はイルカのような声ではなく、今度は人の歌声のような音を残していった。
 才人は、青いドラゴンの姿が夜の闇に完全に消えるまで、塔の屋上から立って見つめ続けた。

「……落ち込んでいても駄目だよな。うん。
 なんにしろ、ここで生きてかなきゃならねーんだ。
 悲しいことよりも楽しいことを想像した方がいい」

 才人は両手を天に向かって突き出して、大きく伸びをした。
 筋肉の筋が伸びる心地よさを感じて、んーっ、と大きくうなり声をあげる。

 才人はドラゴンが消えていった方向をもう一度見た後、屋上から立ち去った。

 目指すはタバサの部屋。
 駄目になるまで頑張ってみよう、と心に決め、機嫌良く出発した。
 たまたまやってきた屋上で、才人は、今の才人にとって、ある種救いになるものを手に入れたのだった。








 再び才人はタバサの部屋にやってきた。
 軽い足取りでドアを開き、暗い部屋に足を踏み入れる。
 まだタバサはランプの淡い明かりのみで、黙々と本を読んでいた。

「よう!」

 天に向かって手を挙げる。
 あまりの勢いで上着の袖が揺れ、バッという音がした。
 返答がないので、より一層寂しく響いた。

「なあ、この部屋椅子が一個しかないみたいだから、ベッドに座っていいか?」

 タバサははいともいいえとも答えない。
 ただ本のページをめくっているだけだ。

 才人は考えた。
 了承も得ていないのにいきなり人のベッドに座るのは、流石に失礼だ、と思っている。
 しかし、目の前の少女がそれにこだわりそうにないのも、今まで得た経験でわかっていた。
 とはいえ、それでも勝手に座ることはできなかった。

「んじゃ、ベッドに座っていいなら五秒間何も言わないでくれ」

 形式的だけでも了承を得るための苦肉の策を講じた。
 それは見事に成功し、タバサは五秒間ずっと黙っていた。
 心おきなく、才人はベッドに腰掛ける。
 詭弁じみていたが、タバサ相手にまともな方法で了承を取るのは難しい。
 念のための措置だった。

「なんの本を読んでるんだ?」

 才人は一人でタバサに声をかけ続けた。
 返答がないのはわかっていたが、それでも懸命に声をかけ続けた。
 同居生活をしなければならないのに何も言葉を交わせないのは致命的過ぎる。
 才人は諦めるのは全て試してみてからでも遅くはないと、先ほどとは打ってかわってがんばりを見せていた。
 それでもタバサは無情にも才人の言葉に返事をしない。

 タバサは、そんな才人の存在を煩わしく思っていた。
 静かに本を読んでいたい、というのが本音で、タバサには才人に声をかけることは断じて行わない意思があった。
 才人がタバサの後ろから本を覗きこんで居るときになって初めて、眉をほんの少しだけ歪ませた。

「うわ、読めね……なんだこのミミズがのたくったような文字は」

 異世界人である才人にとってはこの世界の文字は未知の領域である。
 言葉はなんらかの能力があってか理解できたが、識字することはできない。
 加えてタバサの読んでいる本は挿絵の一切ない、文字だけの本。
 しばらく唸りながら見ていたが、才人には本の内容がかけらも理解できなかった。

「……」

 タバサは才人の言葉に耳を傾けない。
 ただひたすらに、ページに綴られた文字を目で追っている。
 かなりのハイペースで文字を読み取っていた。

「なー、なんでそんなに無口なんだよ」

 才人は本から目を逸らし、タバサの方を見た。
 テーブルの前にぐるりと回り込む。
 本を見ているタバサの正面に立ち、真っ向からタバサに声をかけた。
 手に持った本にのみ目を向けているタバサの目を見て、才人はさらに言葉を続ける。

「おーい、聞こえてる? 俺のことなんでそんなに無視すんの?
 一応、俺、お前の使い魔ってことになってるんだけど」

 中腰になってテーブルの上に肘をつき、腕で顔を押さえながらタバサの顔を見続ける才人。
 それでもタバサは顔色一つ変えない。
 ここまで無視され続けると、実はしゃべれないのではないか、という疑問が才人の中からわき上がってきた。

「実は、失語症? いや、あのとき喋ってたから違うか」

 才人は、自分がこの世界に喚び出された直後のことを思い出した。
 確かに記憶には、タバサがコルベール対して召喚失敗のことを言ってたし、使い魔のルーンを才人の体に刻むときには呪文を唱えていた。
 ならば意図的に無視しているわけだ、と才人は結論づける。

「なあ、無視すんなよー」
「……」
「無視すんなって」
「……」
「お願い、無視しないで」
「……」
「……」
「……」

 才人は立て続けにタバサに声をかけたが、タバサは頑なに口を開かなかった。
 強く言ってみても、懇願してみても、タバサは全く反応を見せない。
 流石に根気も尽きて、才人は何か他の方法でタバサの口を開かせようと考えた。

 しかし、これといって方法は思いつかない。
 いっそくすぐってやろうかとも考えたが、あまり知り合ってない間柄(知り合っていても駄目だが)の女性に対してくすぐりをするのも問題があったのでやめ た。

「ま、いいや、話したくないんなら話したくなるまで、話さなくたっていいさ」

 才人は諦めた。
 ただ時間の経過が、タバサの硬い口を開かせるのを待つことにしたのだ。
 才人は立ち上がって、部屋を見渡した。
 話すことが不可能だとわかったならば、何か他にすることを探すことにした。
 部屋にはこれといって暇つぶしになるようなものはなく、あったとしても読めない本がぎっちり詰め込まれた本棚だけ。

「うーん、掃除、するかな?」

 本棚は一部、埃がかぶっていた。
 一番使用頻度の高い本棚で埃が被っているのだから、他の家具もあまり清潔とは言い難い。

「掃除していい?」

 才人は一応部屋の住人であるタバサに声をかけた。
 少し考えて、言葉を続ける。

「掃除していいなら、五秒間黙ってて」

 タバサは黙っている。
 本のページをまくる音が、沈黙の中に響いた。

「んー、でも今日はもう遅いから明日にするか」

 才人は廊下に吊してあったランプを一つ借りて、タバサの部屋に持ってきた。
 タバサが本の明かりに使っているランプの火貰って、部屋を照らす。

「うわっ、蜘蛛の巣張ってる……この学院にはメイドがいるのに、なんでこの部屋こんな汚いんだよ」

 才人は独り言を呟いた。
 掃除道具がないので、軽く腕で払って蜘蛛の巣を取り除いていく。

「やれやれ、女の子なんだからもうちょっと気を使えよ」

 才人はそのまま家具の中に何が入っているのか物色し始めた。
 もはや遠慮はしないとばかりに、大胆に棚のものを見ていく。
 とある棚で二つのさいころを発見した。
 才人の住んでいた世界のさいころとほとんど同じの六面ダイスを手のひらに持つと、他のものを探し始める。

「んー、すごろく、すごろくっと」

 さいころの対となるものを才人は探し始める。
 棚の中を勝手にくまなく探ったが、目的のものは結局見つからなかった。

「……」

 暇つぶしになる遊戯道具を見つけようとしたけれど、結局さいころしか見つからない。
 棚の中をもう一度くまなく漁ったが、すごろくは見つからなかった。
 そのかわり。

「これは……?」

 才人は木で出来たコップを見つけた。

「……」

 何か飲み物を飲むような容器ではないが、何故棚にあるのか、才人は頭を捻る。

「……?」

 ふと、才人の脳裏に、以前に見た時代劇の1シーンがよぎった。
 木のコップの中にさいころを入れて、回し、地面に押しつけて、さいころの数が偶数か奇数かを当てる賭博だ。

 この部屋の住人を見てみる。
 相変わらず本のページをめくっている。

 才人は首を捻った。
 どう見ても、タバサとは合いそうにもない。
 タバサに聞こうとも、答えが返ってくることはまずないな、と才人は思った。
 釈然としないまま才人はさいころとコップを棚に戻し、他のものを物色し始めた。

 しばらく部屋のものをあれこれと探っていた才人だったが、元々物の少ない部屋だったために、一時間も経たずにほとんどが見終わってしまった。
 ランプを廊下に戻し、ベッドに座る。
 よごれてしまったパーカーは脱いだ。

「……」
「……」

 タバサは黙々とページをめくっている。
 時折、本を閉じたかと思うと、その本を本棚に戻し、また別の本を取り出して読み始める。
 才人はベッドに座ったまま、ぼうっとタバサの行動を見続けていた。

 そして、夜は更けていく。