やがて、タバサは読んでいた本にしおりを挟んで閉じた。
本を本棚に戻し、ランプの火を吹き消す。
「ん?」
ベッドの上に座っていた才人は、ずっと同じ行動を繰り返していたタバサが初めて違う行動を見せたことに、眠くなった目を擦って注目した。
いきなり明かりが消えて、闇に目が慣れず、タバサが何をしているのか才人にはわからなかった。
が、段々と目が慣れていくと、タバサは衣服を脱いでいるところだった。
「わっ、わわっ、お、おま、なんだよ、いっ、いきなり……」
才人は慌てふためくが、タバサは気にしない。
さっとブラウスとプリーツスカートを脱ぎ捨てる。
そしてそのままタンスを開き、寝間着を取り出してそれを着た。
床に無造作に落とされた服をたたみ、タンスに入れて、閉める。
才人は全てが終わった後に、ようやくいくらかの平静を取り戻した。
その後、男のいる部屋で着替えるなんて、不用心な、と才人は憤慨する。
健全な男子であるが故、一瞬だけ、才人は淫らな想像をした。
ベッドに引きずり込まれ、男性の欲求のはけ口にされるタバサ。
しかし、その想像の中でさえも、汚濁を浴びせた相手=才人に対して、人形のような無機質な瞳で見つめていた。
才人は頭を振った。
幼児体型とまではいかないが、女性的な部位の成長が未熟の相手にそのような想像を抱くことに自己嫌悪する。
女性的部位の成長が成熟しているならいいわけでもないが。
「おっと……」
才人は座っていたベッドから立ち上がった。
タバサはその脇を通り、ベッドに身をいれて、毛布を被る。
「……」
才人は一瞬言葉が出なかった。
「そういえば、俺はどこに寝ればいいの?」
肝心なことを肝心なときになってようやく思い出した。
元来少し抜けている性格の才人は、自分のねぐらをどこになのか聞き出すことを忘れていたのだ。
もっとも、それを忘れていなくても、タバサは答えなかっただろうが。
タバサはその問いに答えるかわりに、ベッドの端に寄った。
「隣に、寝ていいってこと?」
再び才人の脳裏に淫らな妄想がよぎる。
今まで女性と男女交際をしたことがなく、例えそれが子どもであっても過剰に反応してしまう男のさがだった。
「……」
タバサは答えない。
ただ、ベッドの端に寄って、目を閉じている。
「……じゃ、失礼して……」
才人は壁側に寄ったタバサの反対側から、そっと体を差し入れた。
タバサに背を向けて、自分の手を枕にし、横向きに体を配置する。
心臓が激しく鼓動するのを、才人は抑えられなかった。
ロリコンではない、と自覚していた才人だが、その意思もぐらつきかかっている。
もちろん、実際に手を出すようなことは間違ってもありえないことではあるが。
「……」
年の近い女性と同じベッドに眠る経験を、才人はしたことがない。
出会い系サイトで登録をするなど、興味はあったが、唐突にそれが訪れることは予測していなかった。
意味もなく興奮し、眠りから遠い位置に立ってしまう才人。
悶々としているうちに、タバサは静かに寝息を立てていた。
「……」
才人も急に冷静になった。
今までの自分の取り乱しようは、自分で顧みて顔を真っ赤にするくらい見苦しいものだったことに気づき、溜息をつく。
タバサが寝ていることを知った才人は、目をつぶり、自分も眠ろうと試みた。
先ほどの興奮の残滓が残り、中々寝付きが悪い。
しかし、まぶたを閉じたまま、何も考えないよう努力した。
どのくらい時間が経ったのか、夢と現の狭間まで来ていた才人にはわからなかった。
ただ朦朧としていた意識の中で、何かの物音を聞いた。
「……母様……」
否、物音ではなく声だった。
か細い、震えるような声。
寂しげで、湿り気のある声。
「……父様……」
才人はゆっくりと目を開いた。
窓から月光が入り、幾分か明るい部屋が明らかになっていく。
視界がはっきりしていけばいくほど、才人の意識もはっきりしていった。
声の主が誰なのか、ぼうっとしている頭を動かして、目だけを動かして部屋の中を見渡した。
誰もいない。
ひょっとして、目に見えないものが声を発しているのか、と息を飲む。
「置いていかないで……」
しかしその疑いは氷解した。
声をしたのは才人の後ろから。
後ろにいるのはタバサ。
部屋にもう一人いる人物を、才人は失念していた。
そうと分かると、才人はにやけた。
あれほど無口な少女が、母様父様置いていかないで、と寝言で言っていることに面白さを感じていた。
まるで自分の存在をないものかのように扱う少女が、ホームシックにかかっていると思った才人は、タバサにかわいさを見いだしていた。
「……どうして、死んじゃったの」
才人は、激しく後悔した。
タバサの寝言は、ホームシックから出たものではなかった。
今はこの世から去った父親と母親の記憶から出ずるものだったのだ。
タバサの父親はこの世界の国『ガリア』王家の次男だった。
人望で才知溢れるタバサの父を、ガリア王家の長男を押しのけて王座に擁する話が出てきてしまった。
王宮は二つに割れ、醜い争いをし、結果タバサの父は謀殺された。
タバサの不幸はそれだけではとどまらず、タバサの父を謀殺した男は将来の禍根を断つためにタバサを狙った。
タバサの母はそれを察知し、娘の身を庇って、心を失う毒を飲んだ。
精神を狂わされた母親と一緒に、タバサは国境付近の屋敷に追い立てられた。
そこででさえ平穏な生活を過ごすことも許されず、心神喪失状態にあった母親を目の前で父親の仇の刺客に殺された。
同じ刺客にタバサも狙われたが、その屋敷に仕えていたただ一人の執事「ペルスラン」の機転により、なんとか命を取り留めた。
タバサと背丈が同じくらいの娘が、代々同じ時期に近くのラグドリアン湖で溺死し、その死体を埋葬することによって、ガリア王家の血を引く少女の存在を抹
消した。
そして、偽名=タバサを名乗り、ガリアではなくトリスタンの魔法学院に逃げ込んだのだった。
その事情を知っているものは、タバサを慕い、様々な工作と手回しを行った執事ペルスランとトリスティン魔法学院の学院長オールド・オスマンのみ。
「父様、母様……」
タバサは寝ながら泣いていた。
今よりもずっと幼いころに、慕っていた父親が突然いなくなり、優しかった母親は毒を盛られ、狂わされ、更に目の前で殺された。
タバサがもしトライアングルクラスの魔法を使えたなら、刺客を撃退できただろう。
しかし、魔法成功率ゼロ故にゼロのタバサと呼ばれているタバサにとって、それほどの力は持っていなかった。
刺客に杖を向けられ、死を目前としていたときに、タバサの母親は今までずっと娘だと思いこんでいた人形を放り投げ、本物のタバサの前に立った。
刺客の魔法は、心を侵され、ガリガリにやせ細っていたタバサの母の腹を抉りとり、完全に息の根を止めた。
腹部が丸々なくなっている母の亡骸が崩れ落ちる光景を、タバサは直視した。
刺客は、発狂した糞ババアが邪魔しやがって、と舌打ちし、本来の目標であるタバサに杖を向けた。
しかし、その杖はもう一度凶器の魔法を発することはなかった。
老僕ペレスランが、老骨に似合わぬ立派な刀剣でもって、刺客の首を切り落としたのだ。
いかな刺客、いかな悪名高き『北花壇騎士』とて、油断をしているところを背後から斬りつけられ、首を落とされては魔法は唱えられない。
愛すべき母親を目の前で惨殺されたタバサは、いくらペレスランが声をかけても、無理矢理力づくで押さえつけられるまで、目を見開いて、まばたきもせずに
じっと何もない中空を見つめ続けていた。
それ以来、タバサの心は何もなくなった。
いや、ただ、母親と父親を殺した仇に対する憎悪と、有能な父と母の子であるのに魔法が使えない自分への自己嫌悪。
黒く、冷たい氷塊のみが、タバサの心の中に存在していた。
何故生きているのか、タバサはこの質問を他人にされないかと、常に恐怖していた。
答えられないからだ。
なんのために生きているのか、何故生きているのか。
突き詰めていってしまうと『なんでまだ死んでいないのか』
その問いにすら答えられなかった。
惨憺たる過去が、タバサの生きる目的を奪い、今も尚新しい生きる目的が生まれることを阻害している。
タバサも、なんでこんなに辛い世界にまだ生き続けているのか、自分でもわからなかった。
あるいは生存本能からなのかもしれないが、みじめな生を続けている自分に嫌悪していた。
タバサは自分を閉じている。
自分が強力な魔法が使えたら、玉砕覚悟で仇を討っただろう。
しかし、現実は無能。
差し違えることどころか、再び宮殿に行くことすらもできない。
強力な魔法どころか、基本的な呪文すら、≪レビテーション≫も≪ロック≫も使えない。
簡単な呪文を苦もなく操る貴族が溢れる、トリスティン魔法学院では、タバサにすさまじい劣等感をわき上がらせる。
劣等感はタバサの内面を閉じさせただけでない。
周囲に対して、見境なく激しい憎悪を抱かせていた。
ゲルマニアの留学生にして、全ての男子を誘惑せんとする褐色の美女、キュルケも。
トリスティン魔法学院の学院長で、すでに死んでいるはずのシャルロット=タバサを受け入れ、保護してくれている大魔法使いオールド・オスマンも。
そして、トリステインの名家の三女にして、巧みな魔法を使いこなす才色兼備、桃色がかった髪が特徴の少女も……。
とかく、恩があろうがなかろうが、世の中の全てに対して憎悪していた。
凶行に走らなかったのは、皮肉にも周囲への憎悪が高じすぎていたために心が麻痺していたからだった。
「……母様」
タバサは眠りながら体の向きをかえた。
背中に感じていたぬくもりを、より多く感じるために無意識に行った行動だった。
人肌のぬくもりを感じ、タバサは顔を押しつける。
才人は、背中に水気を感じた。
タバサが涙に濡れた顔を押しつけていたからだ。
ばつ悪く感じながらも、才人は眠っているタバサのしたいようにさせた。
タバサの涙はとめどもなく流れ、才人の寝間着代わりのTシャツの染みをどんどん大きくしていく。
父様、母様、と寝言で必死に呼び続けるタバサに、ついに才人は耐えきれなくなって、タバサから体を離した。
タバサは手を伸ばして、遠ざかっていくぬくもりを捕まえようとした。
しかし才人は手を離させる。
一旦タバサの体から離れると、才人はゆっくり自分の体の向きを変えた。
自分の手でタバサの頭を支えてやる。
「父様……」
タバサは才人の上着を軽く握りしめた。
才人は寝ながら泣くタバサの体を優しく抱きしめてやる。
邪な思いは全くなく、小さなか弱い少女の体を抱きしめる。
やがて安心したのか、タバサは寝息をゆるやかにし、泣くのをやめ、寝言を言うのをやめた。
才人はゆっくり手を離し、天井を見た。
「……辛い目に遭ってきたんだな」
才人は小声でいった。
才人の貧弱な想像力では、タバサの本当の運命に遠く及ばない悲劇だったが、それでも才人の心に熱い炎を宿らせた。
極端に無口なのも、極端に人と関わり合いをしないのも、悲しい過去のせい。
タバサが悪いのではなく、環境が悪かったのだ、と思うと、タバサの力になりたくなった。
例えタバサが自分を無視しても、自分は全力でタバサを支えてやろう。
悲しい過去を思い出さないように。
もう二度と、眠りながら泣かないように、と、才人は決意した。
才人もゆっくりと目を閉じて、ゆるやかに眠りに身を任せた。
タバサが目を覚ましたとき、隣に才人はいなかった。
才人は部屋に一つしかない椅子に座っており、タバサが起きるのを待っていた。
「おはよう」
才人の呼びかけに、タバサは答えない。
けれど才人は不満な顔を一つも浮かばせずに、テーブルの上のメガネを手渡した。
才人が丹念に拭いていたのか、レンズに汚れはついていない。
「着替え用意しといたぞ」
タバサがメガネを装着すると、今度は着替えを差し出された。
タバサは首を捻った。
昨日までの才人とは全く態度が違う。
昨日もやたら話しかけてきてはいたが、それにしても今日の態度はおかしく感じられた。
終始にこやかで、自分に対して嫌悪の感情を全く持っていないように見える。
無言で着替えながら、才人の様子をちらちらと覗き見る。
才人は後ろを向いて、着替えをしているタバサに配慮をしている。
おかしい、実におかしい、タバサは思った。
万事に対して憎むか無関心かの二つに一つだったタバサだったが、才人に対して疑惑を抱く。
「ん、着替え終わったか」
別段、自分の使い魔に嫌われてもどうとも思わない自信がタバサにはあった。
むしろ、魔法の使えない自分の、唯一の希望として行ったサモン・サーヴァントで現れたものが平民であり、平民を使い魔にしなければならないことに屈辱を
感じてさえいた。
タバサが持つ、この世の全てのものに向けられた憎悪は、才人に対しても例外なく抱いている。
わざと冷たい態度を取り、他人と同じように無視し、邪険に扱ったはずで、タバサの中では才人は自分を憎んでいる予定だったのだが、今日の才人はむしろに
こやかだ。
「寝癖直してやるから、後ろ向け」
いつの間にかブラシを持って、にこにこ笑っている。
今まで通り冷たく接していながら、こんなに機嫌良さそうにしている人間は、タバサは見たことが無かった。
不審を通り過ぎて不気味に感じつつも、才人にゆっくりと背中を向けた。
「……」
「……」
才人は、丁寧にタバサの髪にブラシをかける。
タバサは他人に見られる自分の姿にあまり頓着しないので、寝癖を直すことは滅多にしない。
ブラシを使ったのもかなり久しぶりだった。
タバサはあまり髪が長くないので、ブラッシングはそれほど時間のかかるものではなかった。
「ほら、水を汲んどいたから」
これもどこから用意したものか、才人は洗面器を取り出して、テーブルの上に置いた。
やはりタバサはわざわざ顔を水で洗う習慣はなく、特別汚れていない限りはタオルで拭くだけにしていた。
しかし、使い魔が用意してきて、目の前に出されて無視するのも面倒で、才人の意図する通りに顔を洗った。
才人は割と清潔さを保っているタオルでタバサの顔を優しく拭う。
ますますもってタバサは、才人に対する警戒を強めていった。
才人がタバサに見せているものは、明らかに親しみの類の感情だった。
進んでタバサの世話をすることに喜びを見いだしているように見える。
今までそれをしてくれたのは、あの悪夢の始まり以前の父母と従者、それ以降ではペルスランのみ。
トリスティン魔法学院に来て、今日までの一年と少しは誰もそのようなことをしてくれなかった。
嬉しくないとか、わずらわしいとかそういう風にはまだ思わなかったが、しかし、根拠が不明瞭だったことが引っかかった。
冷たく接して、好かれる、ということをタバサは経験したことがないし、理解もできない。
目の前の人間がその種の特殊嗜好を持っているのかもしれないと推測してみるが、それは少し違うような気がした。
タバサの口の中に苦い物が沸いた。
実は才人は自分を見下しているのではないか、という思考がタバサの頭の中に流れ込んでくる。
長年人を信用できず、恨み続けていた結果、染みついてしまった性根は、まずネガティブに物事をとらえる。
無能、ゼロ。
自分の二つ名がタバサの頭をよぎる。
才人は自分のことを見下して、こうやって愚直に従うふりをして心の中では笑っているのではないか。
平民にかしずかれる貴族のくせに、魔法が使えない、と馬鹿にしているのではないか。
タバサの凝り固まった心にとって、どんなことでもマイナスに受け止めることは容易だった。
一度思いこんでしまえば、才人のほんのささいな行動も、全て自分を貶めているかのように見える。
才人に心を許した瞬間に、手のひらを返して、自分のことを馬鹿にするはずだ。
そんなことはさせてたまるか……タバサは、決して才人に心を許さないことを誓った。
「じゃ、食堂に行くか」
ぽんぽん、と才人はタバサの頭を優しく叩いた。
タバサは才人に触れられるのがたまらなく嫌になった。
触られるだけではない、言葉をかけられることもまた嫌だった。
心の中で才人を呪う言葉を際限なく吐き出しながら、それでもタバサは飽くまで無表情を徹する。
悲惨な運命をたどった少女は、どんな感情を抱いていても、それを外に出すことはしない。
それをすることは一種の禁忌的なものですらあった。
心の奥底では、怒り、憎しみ、悲しみなどが濁流のように渦巻いている。
しかし、それを表に出すの心の部分が、麻痺していた。
彼女が持っていた繊細な心が、母親の心の死と体の死に耐えきれなかったのだ。
タバサが感情を表に出さないのには理由などない。
ただ少し、タバサが歪んでいるだけだった。
「……」
タバサと才人は部屋から出て、食堂をめざした。
才人は、何気ない世間話のようなものを自分で始め、自分で続け、自分でオチをつけて、自分で笑っていた。
タバサに返答は求めずに、声をかけていた。
才人はタバサが心を開くように誠心誠意努力していた。
しかし、才人の熱意には反して、タバサはそれをとてもわずらわしく思っている。
そしてタバサはそれを表に出さないため、才人はわからずにタバサに声をかけ続けた。
廊下の窓から朝の太陽に光が差し込んでいる。
才人はすがすがしい朝だな、とタバサに声をかけた。
タバサは返事はせずに、才人と反対のことを考えていた。
東から登る、希望の象徴のような朝日をちらりと見て、タバサは世界が滅べばいいのに、と思った。
何百、何千回と同じことを考えていることに、今日もまた新しい意味が追加される。
世界が滅びれば、両親の仇は死ぬ。
自分より魔法が使えるメイジ達が全員死ぬ。
母親を守れなかった、無能な自分が死ぬ。
そして、今自分の目の前にいる、自分が呼びだした使い魔の、目障りな平民が死ぬ。
タバサは、今までの何千回と同じように、本気で始祖ブリミルに祈った。
しかし、今までの何千回と同じように、その願いは適えられない。
かくして今日もまた新たな不満を抱きながら、タバサの一日が始まる。
才人は、食堂の裏をうろうろ歩き回っていた。
部屋から一緒に歩いてきたタバサは食堂に入り、優雅な食事をしている。
才人は使い魔であり、尚かつ平民であるから、食堂の外で待機。
同じく、中にいる魔法学院の生徒達の使い魔と同じく待機していた。
「そういえば、俺の飯は一体どうなるんだろうな」
中型から大型の使い魔に囲まれて、才人はぽつりと呟いた。
さまざまな使い魔が食堂の周りに集まって、各々好きなようにしている。
大型の蛇やバジリクスなどの、一見危険そうな生き物が多くて最初は怖がったが、順応は早かった。
一番顔見知りのフレイムの背を撫でながら、ぼんやりと芝生の上に座り込んだ。
「……おや、君は?」
そこへ、肉塊を運んできた人物が現れた。
フレイムが首を上げ、肉塊に釣られて動き出す。
フレイムだけではなく、他の使い魔達も食事を求めて、集まっていく。
「俺はこいつらと一緒の使い魔です」
才人は自分に向けられた視線の意図を汲み取り、
「ああ、噂の人間の使い魔くんか。君にはこれは口に合わないだろうな」
肉塊を持ってきた人物は使い魔のエサ係だった。
小型の使い魔であれば、常に連れ添って生徒自身が世話をするが、中型から大型までになると生徒だけでは出来なくなる。
そのためトリスティン魔法学院では、使い魔の世話をする使用人がいる。
「しかし、人間の使い魔なんて何年もここで働いているけど初めてだからな。何を食べるのかわからないな」
「人間の使い魔なんですから、人間の食べるものでいいですよ」
才人はくすりと笑った。
「賄い食でいいかな。
うちの親方は貴族嫌いで有名だから、ちょっと上質の材料ちょろまかして上手いもん作ってくれるんだ」
ふと、才人は昨日あったコックの格好をした中年の男性を思い出した。
シエスタが親方と呼び、豪快な人だ。
タバサのことを気に入っていた。
才人は、あんなに裏表のなさそうな人にタバサが好かれていることも思い出し、やはり自分は間違っていなかった、と確信する。
マルトー親父は確かにタバサのことを好いていたが、別に人格的なものを考えて好いていたのではない。
誰もが残すハシバミ草のサラダをただ一人食べ尽くした人間だったからだ。
マルトー親父はタバサの内面を知っているわけではなく、才人はそういった事情を知らない。
ただ才人はタバサに対して勘違いで更に評価を上げた。
「それの代わりって言っちゃなんだが……」
エサ係は傍らに置いておいた肉塊を手で千切り、使い魔の体に合わせて分けながら言った。
「これの手伝いしてくれないか?
どうせ、厨房を案内するのはこれが終わってからじゃないとできないからな。
一人より二人でやった方が早く終わるからさ。何、難しいことでもない、適当でいいから」
「あ、やります、やらしてください」
才人は間を置かずに了承した。
別段、使い魔と戯れるのは嫌いではない。
使い魔の方も、同じ使い魔のルーンを刻まれた者同士、一種のシンパシーを持っているようだった。
故に、この庭に蛇と蛙が一緒にいても、蛇が蛙を飲み込むことはない。
互いに主人に仕える者同士として、敬意を表してすらいる。
才人も同じように他の使い魔達に対して悪い感情を抱いているわけではないし、逆もまた然り。
特にフレイムは才人に惚れ込んでいると言っても過言ではないくらいなついている。
才人は何の肉かわからなかったが、使い魔のエサを受け取り、指示通りに配っていく。
使い魔達は行儀よく、才人の声かけ通りに並び、順番にエサをくわえていった。
「へえ、すごいなあ。毎年、新しく入ってきた使い魔達は言うこと聞かなくて、苦労させられるんだが。
やっぱり使い魔同士気があうのか?」
「そうかもしれないっすね。同病相憐れむってやつじゃないかな」
「病気じゃないだろう、病気じゃ」
二人は談笑しながら作業を続けた。
そこへ、大きな影が才人を包み込んだ。
「ん?」
才人が思わず空を見上げてみると、空からゆっくりと下降をしてくる青い生き物がいた。
背にある翼を小刻みに羽ばたいて、地面に垂直着陸する。
呆気にとられている才人の手から、肉が消えた。
「おっ、大物が来たな」
エサ係の男が楽しそうに言った。
「今年一番……いや、二番の大物使い魔だ。ウィンドドラゴンの幼生。
確か、名前はシルフィードっつったっけな」
「うわぁぁ」
才人は悠々と才人が持っていた肉をくわえているドラゴンを見て、感動の溜息を漏らした。
昨夜、塔の屋上で見た青いドラゴンを、目を輝かせて見る。
「ん? ウィンドドラゴンを見たことないのか?」
「当たり前じゃないですか! ドラゴンですよ、ドラゴン!」
はしゃぐ才人を見て、そんなに風竜が珍しいものか、とエサ係は首を捻る。
確かにドラゴンを使い魔にしているメイジは、トリスティン魔法学院の学年に一人いるかいないかではあるが、野生のドラゴンはたまに空を飛んでいるのを見
かける。
使い魔でなくとも、ドラゴンをなつかせて通信や移動の手段などの用途として用いている人も多い。
エサ係は、才人が使い魔だったことを思い出した。
サモン・サーヴァントでひょっとしたらドラゴンの珍しい遠い場所から喚び出されたのではないか、と結論づける。
実際には、ドラゴンは『珍しい』ではなく『存在しない』であったのだが、おおよそはあっていた。
「あー、今年一番の大物使い魔君。
ウィンドドラゴンに構うのもいいが、君がちゃんと並ばせた連中が怒ってるぞ」
才人は、え、と言って振り返る。
エサの配給を滞らせたことに、列を成していた使い魔達が一声に白い目で才人を見ていた。
「あっ、あっ、すまん、お前ら。つい、な、つい……」
ははは、と才人は空笑いし、再びエサの配分をする。
使い魔達は少しだけ不満そうな目つきで才人を見ていたが、無事配り終えるとそれぞれ庭で好きにくつろぎ始めた。
「最後はこいつだが……足りないな」
ウィンドドラゴン=シルフィードのみが正当な分のエサを貰っていない。
才人の手から肉片を盗み取っていたが、全長六メートルほどの大きさの体では、全く量が足りなかった。
きゅいきゅいと不満そうな声で鳴き、才人やエサ係の男に擦り寄ってくる。
「まあいいか、そいつも連れて厨房に戻るぞ」
「え、あ、はい」
「いや、君がいてくれて助かった。一番の使い魔君」
「えと、その一番の使い魔君ってのは……」
「君のことだよ。平民とはいえ、人間の使い魔だ。滅多に見れるもんじゃない。
普通の使い魔とは違って、言葉を話せる。そういう意味から言えば、一番だろ?」
「は、はあ……」
才人は曖昧な笑みを浮かべた。
昨日聞いた話では、人間が使い魔になる前例はない、とのこと。
メイジではなく平民であるが故、それがいいことなのか悪いことなのか言い難いが、とにかくレアリティーはずば抜けていた。
「そこにいる風竜も」
エサ係の男はシルフィードを指さした。
「人間の言葉を理解できても、人間の言葉はしゃべれないからな」
エサ係の男は才人とシルフィードに背を向けて、歩き出した。
「そんなことないのね」
シルフィードが人間の言葉を言った。
才人は目を丸くして、シルフィードの顔を見る。
シルフィードも一瞬びくりと全身を動かし、見つめてくる才人から顔を逸らした。
「何か言ったか?」
エサ係の男が振り返って、才人に向かって言った。
シルフィードの声は明らかに才人の声とは似ても似つかないものだったが、男の背後にいる人間語を話せるとものは才人しかいない。
才人は、どうしたものかとシルフィードと男を交互に見る。
シルフィードは首をそっぽに向けたまま、尻尾でちょんちょんと才人の背中をつついた。
「あ、いや、べ、別に何も……」
シルフィードの行動を合図と受け取り、咄嗟にごまかした。
エサ係の男は少し怪訝な表情を浮かべたが、才人に迷わず付いてくるように指示する。
シルフィードは才人のことを無視したまま、男の後をついていく。
才人は、さっきのは一体どういうことだったのかを考えながら、少し遅れてシルフィードの傍らに立って、歩き始めた。