第4話 みんなのギョロアエ

「皆さん。春の使い魔召喚は、大成功のようですわね」

 才人はタバサとともにトリスティン魔法学院の授業に出席した。
 タバサの隣の席に座り、教壇のところで立っている中年の女性教師=シュヴルーズを何気なしに見ている。
 シュヴルーズは土系統のトライアングルのメイジ。二つ名は『赤土のシュヴルーズ』
 非常におっとりとした性格の教師だった。
 面倒見が良く、中堅であるために、生徒の人気もそれなりに高い。

 授業の始めに前置きとして、生徒達が召喚した使い魔達のことに触れた雑談をする。
 才人のことを見て、タバサに軽くジョークを言ったが、タバサは黙殺し、他の生徒達も沈黙を守り続けた。
 少し困り顔を浮かべ、軽く咳払いし、話を他の話題に変えたものの、一度包まれてしまった重苦しさは抜けないまま、授業を始めた。
 シュヴルーズに落ち度はない。
 長い教師生活の中で、タバサのような異質な生徒は一度も受け持ったことがなかったからだ。
 タバサの同級生達がタバサのことをタブー視していることも、シュヴルーズの知るところではない。
 一週間もしないうちにシュヴルーズも慣れるだろうが、一日目の最初から全てを理解することは、いかなる老年の教師でもできない。

 才人は始まった授業を頬杖をついて、退屈そうに見ていた。
 確かに魔法学院の授業は、今まで見たことのないものだったが、熱中して見ても、才人に魔法が使えないのはわかっている。
 シュヴルーズが石ころを真鍮に変えたときには目を見張ったが、理論の話には全くと言っていいほどついていけなかった。
 自分が理解できない理論を聞いても、退屈なだけ。
 わかりやすく説明してもらおうにも、シュヴルーズにそれを頼むのは気が引け、タバサは論外。
 他の生徒達に聞くのも迷惑がかかるだろうと、才人は沈黙を保ったまま、何も考えずに溜息をついた。

 ちらと才人はタバサの方を見た。
 タバサはじっとシュヴルーズを見ている。
 無表情に。

「……」

 シュヴルーズを見るその顔に何の反応もない。
 才人は改めて人形のようだ、と思った。
 見かけもさることながら、動きに生者の気配を感じられなかった。
 まるでロボットのような、そのような機械的なものを連想させる。
 しかし、才人は昨日ベッドの上でタバサが人形でないことの証明として、体の暖かみを感じている。
 人形ではなく生きた人間であることを、才人はわかっていた。

 一体、タバサはどんな過去を持っているんだろう――才人は思う――ただ漠然と、不幸だということはわかったけど、それがどんな不幸なのかは一切わからな い。
 両親はなくなっているという推測は間違っていない、と才人は思っている。

 才人はタバサに庇護欲を持っていた。
 タバサは人形のようで、愛想という言葉にはほど遠い位置に立ち、且つ辺りの評判もあまり良くない。
 理解できない、空恐ろしい面ばかり目立っていたが、それでもどこかはかなさを感じていた。

 自分が支えなければ、この子は激しい勢いで凄惨に自滅する。
 おおよそただの勘とも言えるものだったが、才人はそんな心理を心の奥底で持っていた。
 あるいはルーンによってつなげられた、主人と使い魔の間のラインがそうさせたのか。
 タバサが持つ危険性を才人が感じ取っていたのかもしれない。

 ふと才人は自分の左手に浮かび上がったルーンを見てみた。
 才人には理解できない模様が浮かび上がっている。
 コルベールが興味深そうにこのルーンを観察していたことを思い出した。
 結局何かわかったのか、暇になったら聞いてみよう、と才人は思い、手をパーカーのポケットに突っ込んだ。

 ちょうどそのときだった。

「ミス・タバサ。あなたにやってもらいましょう」

 シュヴルーズが『練金』の実践をさせる生徒としてタバサを選んだ。
 先ほどのシュヴルーズの失敗によって澱んでいた空気は少し持ち直していたが、この瞬間によってまた重くなった。
 とはいえシュヴルーズに悪意はない。
 タバサが何故『ゼロのタバサ』と呼ばれているのか知らなかったのだ。
 更に、タバサの異様な使い魔に対しての言葉によって、教室の生徒達が一斉に黙りこくったことによって、タバサは同級生達に無視されているのだと、勘違い してしまった。
 皮肉にも、事実は同級生達がタバサを無視しているのではなく、タバサが同級生達を無視しているのだが。

 ともあれ、シュヴルーズが簡単な『練金』の魔法をタバサにさせることで、同級生達の関心を向けさせてやろう、と全くの好意からの行動だった。
 事情の知らない善意ほど厄介なものはない。
 例え間違っていても糾弾のできないものだからだ。
 しかし、今回の失敗は、シュヴルーズが今日タバサに対して教鞭をとったことが初めてであることと、いささかおっとりしている性格のせいであって、責任は 彼女にはない。

「ミス・シュヴルーズ」

 さっと一人の生徒が立ち上がり、シュヴルーズに言った。

「タバサにやらせるのはやめた方がいいです」
「あら、どうして?」
「はっきり言って、危険です」
「『練金』の魔法に危険はありませんよ」
「ミス・シュヴルーズ。タバサに教えるのは今日が初めてですよね」
「ええ、そうですが、ミス・タバサはとても真面目な生徒と聞いております」

 生徒がシュヴルーズと話している間、タバサは既にシュヴルーズの元へとたどり着いていた。
 才人が、授業参観に来た父兄よろしく、呑気にエールを送っている。

「ミス・シュヴルーズ!」

 生徒が一際強く言う。
 しかし、シュヴルーズは取り合わない。
 ピンク髪の生徒は、より詳しくタバサに『練金』の魔法をやらせるのは危険な理由を述べようと食い下がった。

「大丈夫ですよ」
「ですがっ」
「お座りなさい、ミス・ヴァリエール」

 シュヴルーズはピンク髪の生徒にキツイ口調で言った。
 ピンク髪の生徒はまだ何かを言おうとしていたが、タバサが石ころに杖を向け、呪文を唱えているところを見ると、瞬時に机の下に姿を隠した。
 他の生徒達も、ピンク髪の生徒と同じように机の下に隠れている。
 机の上に上半身をだしているのは、才人のみとなった。
 シュヴルーズも、この異変に気付いた。
 一体どういう意味なのか。
 それを探る前に、シュヴルーズは激しい衝撃に頭を揺らされ、爆音に鼓膜を弾かれて意識を失った。

 タバサが杖を向けていた石ころが大量の黒煙を撒き散らしながら爆発し、そのあおりをシュヴルーズがまともに受けたのだ。
 もちろん、タバサの被害も全くないわけではない。
 気絶こそしなかったものの、全身がすすだらけになり、服が一部裂けている。

 タバサが『練金』の魔法によって引き起こした爆発は、教室の窓ガラスを割り、使い魔達を驚かせた。
 才人は爆発によって巻き起こされた風を真っ向から受け、椅子から転げ落ちた。
 眠っていたフレイムが突然起こされたことに腹を立て、口から炎を吐き出し、割れた窓から外にいた大蛇が教室に入りこみ、一匹の使い魔のカラスを丸飲みに する。
 あちらこちらで興奮した使い魔が暴れ、メイジ達はそれを抑えて、ところどころで悲鳴を上がる。

 才人は教室の惨状を呆然と見ながら、何故タバサがゼロと呼ばれているのか、なんとなしに理解した。






 タバサは教室で石ころを爆破させた罰として、惨憺たる様相を見せていた教室の掃除を指示された。
 魔法の使用は禁止、とも言われたが、魔法が最初から使えないタバサにとってはあまり意味のない規制だった。
 ともあれ、タバサと、タバサの使い魔である才人の二人で、教室の割れたガラスを拾い、すすに汚れた机を拭き終わったときにはもう昼休みの三十分前だっ た。
 ガラスの破片を拾う作業などの怪我のしやすい大変なものは才人が、机を拭くなどの軽いものをタバサが請け負って作業した。
 もちろん、タバサの失態であるがゆえにタバサが罰を受けるのはもっともことであるが、使い魔である才人が手伝ったことにより、より早く終えることができ た。

 タバサは作業を終えたことを、命じた先生に伝え、授業終了まで残り時間は少なかったが他の生徒達と合流した。
 一方、才人は理解のできない授業に興味を持てなかったために参加せず、何をするわけでもなく中庭を散策していた。

 中庭には誰もいない。
 生徒達はみんな教室に入り、それぞれの教師のもとで勉強している。
 遠近問わずに教室からの教師の声が聞こえ、才人はなんだか奇妙な感覚がした。

「……」

 一人学院の中を歩き回った。
 これからこの場所で暮らさざるを得ない以上、よりよく道を知っておいた方が得策だ、と才人は判断した。
 コルベールからもらった簡単な地図を頼りに、実際に歩き、目で見て、建物の構造を把握していく。

「はぁ……」

 幸いながら、以前才人が読んだことのある小説のように日によって廊下の位置が違うなどという魔法学院ではなく、想像すらできないような奇怪なものもな かった。
 それでも今まで絵やテレビでしか見たことのない西洋の中世風の建築様式に戸惑い、溜息が漏れる。
 例え重いが吹っ切れたとしても、それでもまだ前の世界に未練が残るのは人の情。
 少々陰鬱な気分で、才人は廊下を歩いていた。

「この塔のてっぺんが学院長室か」

 本塔の入り口まで来た才人は、塔を見上げて呟いた。
 本塔には学院長室の他に食堂や図書室などの施設があり、掃除をしている使用人の邪魔にならぬよう見て回った。
 貴族達全員が食事をとる『アルヴィーズの食堂』は、給仕と貴族しか立ち入りを許されておらず、窓の外から中の様子をうかがった。
 一度タバサを食堂まで見送ったときにちらと見ていたが、まだ食堂の豪華絢爛さには慣れず、魅入ってしまった。
 長いテーブルの上に立てられているろうそく、籠に入ったフルーツ、壁際にある小さな人形……今まで夢にさえ見たことのない光景がそこにあった。
 が、所詮平民は平民で、幾人かの使用人に不審な目つきで見られていることに気付き、すぐにその場から退散した。

 食堂から離れ、階段を登る。
 次なる目的地は図書室だった。
 この世界の文字は読めないけれど、何か暇つぶしになるものがあるかもしれない、と才人は思っていた。
 才人の通っていた学校では、何冊か漫画の本があったのだ。
 マンガの神様、と呼ばれている作者の本であり、才人には少々受け付けない類のものではあったが、それでも何もないよりかはマシだった。
 コルベールから貰った地図を頼りに図書室の前まで来ると、ちょうどそこにはコルベールがいた。

「サイト君!」

 コルベールも意外に感じたようで、動揺しつつ才人に駆け寄った。

「あ、こんちわ、コルベール先生」
「ちょうどよかった、ついてきてくれ」
「え?」

 才人はコルベールに頭が上がらなかった。
 この世界の成り立ちをよりよく教えてくれたのはコルベールで、自分が異世界から来たということを素直に信じてくれたのもコルベール。
 最初にあった時には人の話を徹底的に無視していたが、全く知らない世界に連れてこられて、過度に動揺しなかったのは、コルベールのおかげだった。

 コルベールは才人の手首を掴み、ずんずんと階段を登っていく。
 力強く掴まれたうえ、コルベールは足早に移動したため、手首が痛んだが、それでも才人は必死に足を動かした。

 コルベールの目指している場所は本塔の最上階だった。
 最上階はトリステイン魔法学院の学院長室があり、才人が今回行く気のなかった場所でもある。
 左手で一冊の古い本を抱え、右手で才人の手首を掴んでいる。
 二人が学院長室の前までくると、コルベールだけが中に入った。
 才人はわけのわからぬままに連れてこさせられ、ついでに置いて行かれたことに腹を立てたが、その場は我慢して待っていた。
 やがて中から一人の女性が出てきた。
 緑色の長い髪の毛と、豊満な体格の大人の色気を持った女性で、才人は彼女に見とれつつも軽い会釈を交わした。
 メガネをかけた知的そうな印象を与える女性は、才人のことに気が付くと微笑を浮かべて、会釈を返した。
 そのまま才人に背を向けて階段の方へと歩いていく。

 その間、小さく、ちっ、と舌打ちをしていたことに、才人は気付かなかった。

 中でコルベールと誰かが話している声が聞こえたが、才人は聞き耳を立てずにそのまま待っていた。
 五分もしないうちにドアが開き、中からコルベールが顔を見せ、中に招き入れる。
 才人は、失礼します、と元の世界の職員室に入るときのような意味のない罰悪さを抱きながら、学院長室の中に入った。

 中には長い白髪と白い髭を蓄えた老人が、セコイヤの机に肘を突いて座っていた。
 ふと、才人はその老人をどこかで見かけたような気がした。
 それがどこだったのか、という答えは出せず、釈然としないまま机の前で歩みを止める。
 コルベールは老人の傍らに行き、小声で何かをしゃべっていた。

「えーと……君の名前は?」
「才人です。平賀才人」
「ふむ、サイト君か。話は聞いておる。異世界から来たんじゃってなぁ」
「はい」

 才人は問いに答えながら、心は老人をどこで見たのかという疑問で一杯になっていた。
 喉元辺りまで出かかっていたため、どうでもいいことでも気になってしょうがない。

「その、なあ。人が使い魔になるっちゅうのも、この世界では珍しいことなんじゃよ。
 それで、その……なんというか、軽いテストのようなものをしてもええじゃろうか?」
「構いませんよ」

 才人が言い終わる前に、コルベールは一本のロープを前に出した。

「これがなんだかわかるかね?」
「ロープ」

 実際ロープ以外何物でもなさそうに思えた。
 ただ、長いロープの中頃はハンモックのようになっている。

「じゃあ、これを持ってみたまえ」

 コルベールは才人に持っていたロープを手渡した。
 すると才人の左手の甲にあったルーンが光を放ち始める。

「うわっ、なんだこりゃ?」

 自分の肌の一部が突然輝き始めたことに驚いた才人。
 コルベールと老人は互いに目を見合わせ、小声で二言やりとりをしている。

「もう一度聞こう。それがなんだかわかるかね?」
「スリング」

 今度はするりと出た言葉に驚いた。
 全く自覚のないままに、手に持ったものの使い方が明確に頭に浮かんでくる。

「このハンモックみたいなところに、石やら鉛の塊やらを置いて投擲するんだろ?
 こう、ぶんぶん振り回して……」

 コルベールは驚いた表情をし、それと対照的に老人は深く唸りながら頷いた。
 ゆっくりとした手つきで老人は才人の手に持つ投石紐を指さした。

「それは持っていなさい。何かの役に立つかもしれない」
「はあ……」

 スリング、つまり投石紐は、投石するにあたってより効率を高めた『武器』である。
 これを使うことにより、人間の筋肉だけではなく、遠心力も加わって飛距離と破壊力が増幅する。
 ただロープをほんの少し細工しただけの代物ではあるが、武器に相違ない。

 コルベールは先ほど持っていた本を開き、何度も視線をそこと才人の左手とを行き来させ、唸っている。
 才人は老人とコルベールの挙動を不審に思いながら、スリングを丸めてパーカーのポケットに突っ込んだ。
 スリングを手からはなすと、左手の甲のルーンは光らなくなった。

「なんだったんだ、今の……?」

 才人はまじまじと左手のルーンを見た。
 この世界の文字が全く読めない才人でも、左手に浮かんでいるものは文字というよりか模様に近いものであるとわかった。

「あの、これ、なんなんすかねえ? これ、なんで光ったんでしょうか?」

 才人は目の前の二人に尋ねた。
 二人は才人に目を合わせないようにわざとらしく咳払いし、老人はもっともらしく口を開いた。

「いや……まあ、それほど気にせんでもええよ。野生の幻獣と使い魔を見分けるための印みたいなもんじゃし」
「はあ……で、テストっていうのは?」
「あ、ああ、もう済んだぞい。帰ってよろしい」

 才人は釈然としないものの、頭を下げて退室した。
 パーカーのポケットにはスリングが入っている。

「結局、なんのために呼びだされたんだか」

 そのまま振り返らずに愚痴をこぼして階段に足をかける。
 手をパーカーのポケットに突っ込み、なんとなしに中に入ったものを掴む。
 再び左手の甲が輝く。

 そして。

「……ッ!?」

 確かに気配のなかったはずの場所に目をやった。
 廊下の隅に、さきほどの緑色の髪をした女性が立っている。

 いつの間にか現れたのか。

 女性は才人が見ていることに気が付いたのか、心持ち固そうな表情で会釈した。
 才人は不審に思いつつも、会釈を返し、階段を降りた。

 気が付けば、もう既に昼休みの時間に入っていた。








「……ん?」

 才人は現在トリステイン魔法学院の中庭にいる。
 中庭には『アルヴィーズの食堂』で昼食を終えた貴族達が、ところどころに置かれた丸テーブルを囲んで談笑しつつ食後のデザートを楽しんだり、食後の休憩 をとっていた。

 才人は使用人達の賄い食で腹を満たし、デザートの配膳を手伝っている。
 その最中、地面に何かが落ちていることに気が付いた。

 紫色の液体で満たされた、ガラスの小瓶。
 拾って太陽の光に透かしてみると、とても綺麗な紫色が煌めいていた。

「ゴミ……じゃないよなあ」

 どう見てもゴミではなく、例えゴミに見えても、この魔法学院のことだから、ゴミではないという可能性は無視できない。
 付近に落とし物を探しているような人もいない。
 とにかく、気付いて拾ってしまった以上、誰かに伝えないといけないな、と才人は溜息をつく。
 スリングが入っていない方のパーカーのポケットに小瓶を入れて、才人と同じくデザートの配膳をしていたシエスタの元へ向かった。

「落とし物、ですか」

 才人は困ったらまずシエスタを訪ねることにしていた。
 この世界で初めて親切にしてもらった人であり、身分としても一番身近で、加えてシエスタはかわいらしい女の子だった。
 才人は今まで特にモテたことはなかったが、出会い系サイトに登録するほど、異性に興味がある。
 異世界に来て、美少女ないしは美女は何人か見てきたものの、そのほとんどが身分の差がはっきりしている。
 その上、鼻にもかけてくれない子ばかりだった。
 例え事務的な態度で接されていても、親切にしてくれる子に心惹かれるのは致し方ないことであった。

「はあ……これは、香水?」

 シエスタは才人から受け取ったガラスの小瓶を受け取り、手のひらに転がしてまじまじと見た。

「私もあまりよく知らないのですが、これは多分貴族の方々がお作りになる特殊な香水と思います。
 そして、こんな鮮やかな色を出せるのは、ここにいらっしゃる貴族の方々でも数は限られますので……」
「ふーん、香水、ねぇ」
「とりあえず、これは私が預かっておきましょう。後で先生方に渡しておきます」
「うん、ありがとうシエスタ」

 才人はシエスタに香水を預けると、再びデザートを配膳し始めた。
 幾人か昨日見た人物に出会ったが、彼女らも特に声を掛けようとはせず、配膳されたデザートのパイにフォークを入れる。

 他のほとんどの貴族は『タバサ』の使い魔である才人に、あからさまに関わらないようにしていた。

 集団の中の異質な存在は、大抵『いじめ』なる差別行為の対象になるが、タバサの異質さは度を超している。
 どんなことをされても無表情を徹し、何の感情もない瞳で相手をまっすぐに見つめるタバサ。
 何も言わずに、じっと見つめられるだけで誰しもが怖気を感じた。
 魔法成功率ゼロ故に『ゼロのタバサ』しかしゼロには同時に『虚無』という意味がある。
 虚無というのは伝説の系統のことではなく、文字通り『虚無=何もない』

 タバサの瞳に捕らえられた人間は、タバサが何もない存在だと錯覚する。
 何もない存在なのに、タバサは確かに存在する。
 その矛盾がもたらす得体の知れない恐怖に耐えるよりかは、避ける方が無難であると大抵の人間は思う。
 実際のところ、タバサの中には自己を崩壊させかねない潜在的な憎悪が詰まっているのだが、幸いながらそれに気付いている人間はいない。

「ありがとう、給仕君。……おや? 君は確かミス・タバサの……」

 薔薇を加えた金髪の貴族=ギーシュ・ド・グラモン。
 美形ではあるが、友人の間では『間抜けなキザ』と思われているグラモン家の末子。
 女好きであり、今もテーブルを囲む友人達に、今誰と付き合っているかを聞かれているところだった。
 最初は「薔薇は多くの人々を楽しませるために咲くのだからね」などとのらりくらりとかわしていたが、追求が次第に強くなってきたところに才人がやってき た。

「あ、どうも……」

 才人は嫌な顔を浮かべそうになり、無理矢理笑顔を作った。
 ギーシュのような美形は才人の苦手な、というよりも嫌いなタイプであり、関わり合いを持ちたいとは思えなかった。
 給仕ではない、と言いたかったが、デザートを配っている以上、即席であれど給仕と言っても間違いはないな、と妙に納得してしまう。

「君も大変だな」
「はあ?」
「ミス・タバサは、あまりおしゃべりなタイプではないからね」

 ギーシュは前髪を優雅な手つきではねのけて、更に口を開いた。
 テーブルを囲む他の貴族達は、才人に気付くと黙りこくって、ギーシュを見ている。

「まあ……」

 才人も曖昧な表情を返す。
 ギーシュは気に入らないが、しかし言っていることは本当である。
 タバサを中傷されたら怒りもしようが、事実で全く反論できないことを言われても怒りはわいてこない。
 無口で大変なのも、納得せざるを得ない。

「もし、ミス・タバサが生きる楽しさというものを見失ってあのように無口になっているのならば、遠慮無く僕に相談したまえ。
 真に美しいものを見れば、きっと彼女の笑顔を取り戻すだろう」

 流石に才人は絶句した。
 ここまで自分を恥ずかしがらずに褒め称える人間を見たことがない。
 冗談で言っているのかと思いきや、薔薇の造花をくわえているギーシュの瞳は本気であることを物語っている。
 ここまでキザだと、もはや憐れにも思えてきた。

 ギーシュはあまり深く物事を考えるたちでもない。
 物質的、実質的な恐怖に対しては弱いが、心理的、潜在的な恐怖にはむしろ気付かず、よってタバサにも恐れない。
 抜けている、とはいえ周囲にとってはそれは欠点ではなく、愛嬌という受け止め方をされている。

 一方、タバサはギーシュのことを、どうでもいいと思っている。
 飛び抜けて魔法が使えるというわけではないし、美形ではあるがどちらかというと三枚目。
 タバサにとってどうでもいい分野においてのみ突出している存在であるので、特別に注目しているわけではない。

 ギーシュと同じテーブルを囲んでいる貴族達は、全員口をつぐみ、事の成り行きを見守っている。

「そ、そりゃ、どーも……」

 呆れと動揺の混じった表情で才人は言葉を返した。
 ギーシュは、ふむ、と満足そうに頷くと、薔薇の造花を人差し指と中指で掴む。

「君にはこれをあげよう。手を出したまえ」
「え?」

 おずおずと才人は手を出した。
 ギーシュは指に挟んだ造花を大げさな手振りで振り、花びらを才人の手の上に落とす。
 才人は呆然と手の上に落とされた花びらを見た。

「……え?」

 才人は首を捻った。
 ただの造花の花びら以外には見えない。
 一体何を考えて、これを渡したのか?

 ギーシュに問おうとしても、ギーシュは既に才人から興味を失ったのか、他の貴族と話をし始めている。
 何故これを自分に渡したのか聞こうにも、奇行を見せた人にわざわざ聞く勇気は才人にはなかった。
 ギーシュはもちろん特別な理由があってこのことをしたわけではない。
 美形を自負するギーシュの、ただのパフォーマンスの一環なだけだった。

 キザな人のやることは理解できねーな、と才人は造花の花びらをパーカーのポケットに突っ込んで、その場から立ち去った。
 その後も特に問題は起こらぬまま、貴族にデザートを配膳する仕事は無事終了した。







 とりたてて大きな事件など起きずに、異世界での日々は一日二日三日と過ぎていった。
 タバサは相変わらず無口で、才人が声を掛けても無視し続けている。
 それでも負けじと才人は頑張っていたが、今のところそれが報われるような気配はなかった。

「何がいけないんだろうなあ」

 才人は中庭で他の使い魔達に溜息混じりの愚痴を漏らしていた。
 何匹かの使い魔達が周りに集まって、わかっているのかわかっていないのか、鳴き声を返している。

 才人はおおいに暇だった。
 使い魔、といっても何することもない。
 秘薬の原料になるものを探したり、魔法の詠唱中に主人を守るような場面には未だ出くわしていない。
 雑務をしようにも、タバサは洗濯を自分でするし、部屋の掃除も一度徹底的にやってしまえばしばらくは問題はない。
 食事の準備も元より学院にいるコックやメイドの仕事。

 元の世界にいれば学校があり、友達が居て、パソコンやゲームがあったが、こちらには何もない。
 かつては面倒だと思っていたことも、楽しいと思っていたことも一切ない世界は、とても退屈なものだった。
 中庭の芝生の上にどっかと座り込み、ひなたぼっこをしている使い魔達と共にのんびり過ごすことが、最近の才人の日課である。
 それも十分退屈に思える時間の過ごし方だが、その他に何もやることがなかった。
 シエスタなどの手伝いをしようにも、手伝いできるものは少なく、かえって邪魔になってしまうことを、既に才人は学んでいた。

 才人が暖かい陽気の中で大あくびをしたとき、空から一匹の風竜が近寄ってきた。

「おおっ?」

 ゆっくりと風竜は下降し、地面に降り立つ。
 朝、昼、晩とエサを与え続けているためか、使い魔の風竜は才人に懐いている。
 才人も好かれるのにはやぶさかではなく、空を飛ぶ爬虫類に敬意を持って接している。
 未だ主人には会っていないが、風竜の美しさから、きっと主人も優しい美少女なんだろうなあ、と勝手な妄想を広げていた。

 風竜は全長六メイルほどの、大型の使い魔である。
 学院の建物の中には入れず、主人の寮にも入れないため、近くの山に住んでいる。

 この風竜は、人なつこい性格なのか、甘えた声を出して才人に頬ずりした。
 才人が美しい青い鱗に覆われた首を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。

「確かにしゃべったんだよな」

 コルベールに聞いても確かに風竜は賢いが、人間の言葉をしゃべらないという。
 しかし、以前エサをやったときに風竜がしゃべっていた。
 実際にしゃべっているところを見たわけではないが、少なくとも風竜しかいないところから声が聞こえてきた。
 あるいは使い魔となったことでしゃべれるようになる事例があるらしいが、そのとき以降はしゃべる気配すらない。
 あれはなんだったんだろう、と思いつつ、才人は風竜の首を撫でるのをやめた。

 風竜が地面に横たわると、才人は腹の部分に寄りかかって座った。
 風竜が来たところで、やることは何もない。
 ぼんやりと空を見つめながら、時間をもてあましていた。

「暇だなあ……」

 才人のぼやきに応じて、あたりにいた使い魔達も鳴き声を返す。
 風竜もきゅいきゅいと喉を鳴らし、才人の体に頭をこすりつけた。

「な、なんだよ……」

 ただじゃれているだけでなく、ぐいぐいと才人の体を押す。
 才人のパーカーのフードを口でつまみ、引っ張った。

「ちょ、ちょっと、伸びるからやめろって! わ、わかったから!」

 地球からハルケギニアへ持ってきた一張羅をダメにされてはかなわぬと、すぐに風竜のさせるがままにした。

「上に乗れ、っての?」

 才人の問いに、きゅいきゅいと風竜は首を上げ下げして答える。
 おずおずと、風竜の背びれと背びれの間に跨る才人。

「……飛ぶのか」

 ぽつりと小さな声での呟きだったが、既に才人の目は輝いていた。
 才人は空を飛ぶことに夢を持っていた。
 地球ではまず味わうことのできない経験の機会をつかみかけ、心が躍る。
 風竜は才人の呟きに、翼を羽ばたかせることによって答えた。

 才人は揺れる風竜の上で、慌てて背びれに捕まった。
 心拍数が上がり、顔が少し紅潮してゆく。
 一瞬で、地面を踏んでいる、という確かな感覚が消失し、風竜は前に動き始めた。

「う、うわぁ……」

 ゆっくり高度を上げつつ低空で旋回する風竜。
 数メートルの高さまで上がると、建物にそって吹き上げる上昇気流を見つけて、一気に高く飛ぶ。

 あっという間に、地上にいた使い魔達が豆粒のように小さくなり、学院の全貌を現した。
 みるみるうちに学院も小さくなり、広大な空の真ん中で、ようやく風竜は上昇するのをやめた。

 才人は高い空で見える光景を楽しんだ。
 学院の外には草原が広がり、それを分断するかのように道が出来ている。
 草原が終わると林が、林の奥には森があり、更にその奥には山がある。
 全てのものがミニチュアサイズで、目に楽しく感じられる。
 人か馬らしきものが、草原の中に砂粒くらいの大きさでぽつんとあるのを見て、才人は笑った。

「すっげぇ」

 才人は感嘆し続けた。
 竜に跨って空を飛ぶ……地球ではファンタジーとされていたことが実現している。
 魔法を直に見せられるよりも更に才人にここが異世界であることを自覚させた。

 強い風圧をも心地よく感じ、才人は空中散歩を楽しんでいる。
 半時間が経っても、飽きもせずじっと目をこらして、遙か遠くの地上を見つめていた。

 学院の方から授業終了の鐘が鳴り響いてきたが、夢中になっている才人はそれに気付かない。
 突如、風竜は何かに呼ばれたかのように首を学院の方へ向け、急激に高度を下げてゆく。

 人間である才人よりもずっと鋭敏な聴覚を持った風竜は、主人の呼ぶ口笛の音を聞きつけていた。
 主人の求めに応じるために、主人の口笛の音のした場所へと飛んでいく。

「うおっ!」

 才人は咄嗟に風竜の背びれを強く握り、体勢を低くして急激なGに耐えた。
 あまりの風圧に叫び声も上げられない。
 風竜は今度は急激に速度を落とし、魔法学院の一つの塔の壁面スレスレを通り抜けようとする。

 その直前に塔の窓から人が一人飛び降りた
 ちょうど風竜の――そして才人の――上に着地する。
 才人は風竜の体と落下してきた人に押しつぶされて、うめき声を漏らす。
 その反面、いつもの着地に比べると変な感触を感じた風竜に飛び乗った人が狼狽する。

「なっ、なんなのよ! なんで私のシルフィードに私以外の人間がっ!?」

 踏みつぶされた才人は、痛みの声を漏らしながら体を起こす。
 くらくらする頭を抑え、ぼんやりした視界で、何が上から落ちてきたのか、確かめた。

 ゆっくりと焦点を結んでいく視界に映ったのは、頬を膨らませて怒る桃色の髪の女の子。
 以前、才人に出会い、平民のくせに、などと理不尽なことを言ってきた、あの子だった。

 才人は、これからろくでもないことになりそうだ、と目の前の子に見られないようにそっと小さな溜息をついた。









「降りなさいよ、あんた!」

 桃色の髪の子は、才人に向かって足を突き出した。
 才人は蹴りをかわしきれず、腹に蹴りを食らってバランスを崩す。

「お、おい、やめろよ! 危ないな!」
「うるさいわね、落ちなさい!」
「落ちたら死んじまうだろーがっ!」

 不安定な体勢からの蹴りなので痛みは大きくないが、風竜から落下する危険性がある。
 才人は必死に背びれの一つにつかまって、落ちまいとする。

「そ、それにそんな短いスカートで蹴っ飛ばしたら……」

 ただでさえ風が強い中、膝までもないスカートで蹴りを放つと、当然その中身も見えるわけで。
 才人は親切心から言ったのに、本人は更に顔を赤く染めて、激昂した。

「ば、馬鹿ッ! な、ななななな何見てんのよっ! へ、平民のくせにっ!」

 渾身の蹴りが才人の顎に命中。
 不意打ちだったこともあり、バランスを崩し……大空へ投げ出された。

「う、うっわあっ!」

 がむしゃらに手を振り回し、何かを掴む。

「きゃ、きゃぁっ!」

 桃色の髪の子の足首だった。
 宙に投げ出された才人に引っ張られ、地上に落ちるかと思いきや、間一髪のところでシルフィードの背びれを掴む。

「つ、杖がっ!」

 桃色の髪の子が手に持っていた杖は、地上に落下してしまった。

「こ、こらっ! 何すんのよ! 杖が落ちちゃったじゃない!」
「杖なんてどうでもいいだろ! 人の命かかってんだ!」
「杖があれば≪レビテーション≫でもなんでもかけてあげたわよっ!」

 シルフィードが大きくいなないた。
 桃色の髪の子がシルフィードの背びれに捕まり、更にその子の足首を才人が掴んでいるだけ。
 もし手を離せばあっという間に空から投げ出され、地面に衝突する。
 怪我ですむという高さではなく、場所が悪ければ死んでしまう。

 桃色の髪の子は、才人を蹴り落とした後、対象を軽く浮遊させことのできる≪レビテーション≫をかけるつもりだった。
 レビテーションがかけられれば、落下スピードは格段に落ちて、無事に着地ができる。
 しかし、魔法のない世界から来た才人がそんな魔法があることを知るわけがなく、文字通り「足を引っ張ってしまった」
 結果、桃色の髪の子は自分の杖を落としてしまい、二人とも命の危険に晒されている。

 重量を片方に寄せられたシルフィードは正しい飛行姿勢を保つことができなかった。
 二人がぶらさがっている方に傾き、高度を保つことができない。

「お、おい、段々高度が下がってきているぞ! こ、このままじゃ激突するんじゃないのかっ!?」
「重さが偏りすぎてるのよっ! あんた、落ちなさいっ!」
「無茶ゆーなっ!」

 二人が口論している間にも、シルフィードはぐるぐると旋回しながら地面に迫ってゆく。
 桃色の髪の子の握力にも限界がある。
 ほんの一分も経っていない今でも、二人分の体重を支えられたのはほとんど奇跡と言っていいほどだった。

 シルフィードは不快そうな鳴き声を絶えず漏らしながら、必死に飛行姿勢を保とうとしているが、中々上手くいっていない。
 やがてトリステイン魔法学院の塔が間近に迫ってくる。

「う、うぉぉ、ぶ、ぶちあたるぞ、このままじゃ!」
「だから、あんたが落ちれば何の問題もないのよ!」
「死ねッていうのか、お前は!?」
「わかってんなら早くなさい!」

 桃色の髪の子は足首に捕まっている才人の手をもう片方の足で蹴った。

「や、やめっ、あぶな、落ちるだろっ!」

 咄嗟に上を見る才人。
 大きく足を開いた桃色の髪の子の、スカートの中が見え。

「あ、やべっ!」

 思わずうっかり手を離してしまった。
 もう一度掴もうと手を伸ばしたが、もちろん無理。
 トリステイン魔法学院の塔に向かって、落ちていく。

「う、うわああああああ!!!」

 振り落とされている最中、パーカーのポケットからスリングが飛び出した。
 風圧によって舞い上がり、たまたま空に向かって伸ばした才人の手に引っかかる。

「や、やばい、し、死ぬッ! 墜落死するッ!」

 才人は空中に投げ出された。
 がむしゃらに手足を振り回して落ちまいと些細な抵抗をするも、シルフィードから離れていった。
 手に持っているのはスリング。
 不幸なことに垂直ベクトルのみならず、水平ベクトルも相当な大きさを持っている。

 が、奇跡は起こった。
 落ちた先は塔の屋上。
 針の先のような小さな面積の地面に、降り立った。

 ずしんと膝を曲げ、垂直ベクトルをほぼゼロにすることに成功。

「うわっ、たっ、たっ!」

 水平ベクトルが殺すことができずに、塔の屋上を走る才人。
 着地のさいに足を痛めたが、気にすることはできない。

「お、とっとっととととッ!!」

 塔の屋上の端まで来てようやく勢いを殺せたが、本当にギリギリ。
 足のつま先だけで塔の端を踏んでいる。
 ちょっと顔を下に向けるだけで、遠くの地面が見ることができた。

 びゅうびゅうと吹く風は、才人を塔から突き落とすような方向で吹いている。
 風に煽られ、才人の体がぐぐぐと傾いていく。

「あっ、や、やだっ! お、落ちたく……ないっ!」

 手をぶんぶん振り回してなんとか落ちまいとする才人。
 が、重力と風は才人を誘い、ゆっくりと塔の下の地面を見ざるを得なくしていく。

「……ッ!」

 完全に足が塔の屋上から離れかかったその瞬間、手に持っていたスリングを投げた。
 スリングは見事に塔の端に引っかかり、才人はそれにぶら下がることができた。

「ひぃぃっ!」

 すぐさまスリングの紐を頼りに屋上によじ登り、その場で尻餅をついた。

「……し、死ぬかと思った……」

 才人の体中冷や汗にまみれている。
 どっと疲労が押し寄せて、気怠い腕を動かして、額に浮かんだ汗を拭いた。
 荒い心臓の鼓動を静めようと、目をつぶり深く息を吸い込み、吐く。

 しかし、まだ落ち着くには早かった。

 目を開いてみると、まだ空にはシルフィードが飛んでいる。
 当然、あの桃色の髪の子もぶら下がっている。
 ゆっくりと青い風竜は旋回をし……才人のいる塔へと突っ込んできた。

「いぃやぁあああああああああああああああ!!」
「お、おわっ!」

 ついにぶら下がっている腕の力が抜けて、桃色の髪の子はゆっくりと宙に投げ出された。
 塔の上空を飛んでゆく。

「あっ!」

 着地のときに痛めた足を再び奮起させて、才人は空を飛ぶ女の子を追いかけた。

「くっ、ていっ!」

 才人は自分が今までに経験したことのないスピードで走っていることにも気付かず、手に持っていたスリングを片方だけ持って桃色の髪の子に放った。
 見事にスリングは女の子の足に引っかかり、女の子は減速した。
 腕に力を込めて引き寄せ、落ちてきたところを受け止める。

「大丈夫かッ!?」

 才人は抱え上げた女の子にまず声をかけたが、それよりも足下に気を払うべきだった。
 まさに神速とも言えるスピードで走っていた才人は、あっという間に屋上の端から端まで走ってしまっていた。
 気が付いたときにはもう遅く、減速しても間に合わない。

「うわっ!」

 勢いを殺せずに、屋上の端から大空に飛び出した。
 女の子を抱えたまま、目をつぶる。
 重力によって下に加速していることを体感し、地面に激突したらなるだろう姿が脳裏によぎり、背筋が凍る思いをした。

 が、不意に地面に落ちている感覚がなくなる。
 墜落死してしまったのか、と才人は思ったが、違った。
 恐る恐る瞼を開いてみると、青い鱗の風竜の背が見えた。

「きゅいきゅい」

 シルフィードは速度を落としたまま首をこちらに向け、自慢げに鳴いた。
 桃色の髪の子が落下した直後から、いち早く体勢を整え直し、タイミングを見計らっていたのだ。

「ふぅ〜……死ぬかと思った……」

 何度も何度も墜落の危機に晒されて、才人は大きく溜息をついた。
 着地のさいに痛めた足首が、今になってずきずきと痛む。

「おい、お前、もう助かったぞ、大丈夫だ……? ん?」

 才人は抱えていた女の子を揺さぶった。
 彼女は固く目をつぶり、震えている。
 ふと、才人は右手に何か生暖かいものを感じた。

 シルフィードはゆっくり下降し、地面に足をついた。
 久しぶりのしっかりとした地面を踏みしめ、才人は懐かしさを覚えつつ、手に抱いたままの彼女を立たせた。

「このッ……馬鹿ぁッ!」

 トリステイン魔法学院の中庭に、平手打ちの音が軽快に響き渡った。