第6話 君が泣いても殴るのをやめない

 翌日、ルイズと才人は中庭で再び相まみえた。
 ルイズは昨日に引き続き才人を探し続けており、中庭でぷらぷらとやる気なさげな顔で歩いている才人を見つけたのだ。

「決闘よ!」

 ルイズは才人の顔を見るなり、即座に白い手袋を投げた。
 大きな杖を抱えて、勇ましく才人に向けると、辺りのギャラリーが何事かと集まってくる。
 一方才人の方は、ぽかーんと口を開け、何が起きたのかわからないという表情で、ルイズを見ている。

「なんだなんだ?」
「ルイズが、あのタバサの使い魔に決闘を申し込んだってさ」
「決闘? 決闘って確か禁じられてたんじゃなかったか?」
「貴族と貴族の決闘はな。タバサのアレは貴族じゃないだろ」
「ああそうか……ヴァリエール家の人間が平民相手に決闘するってのも変な話だな」
「だな。まあ、ルイズは沸点が低いから、あり得ない話でもないぜ」

 辺りで囁かれる野次をよそに、才人は口を閉じ、目を細めた。

「決闘? ヤダよ、ンなもん」

 才人は、自分が正しいと思ったことが他人とのそれとぶつかり合ったとき、引かずに立ち向かうことの出来る人間だが、別段喧嘩好きというわけではない。
 加えてその相手がルイズのような少女であれば、尚更のこと。
 これがギーシュ・ド・グラモンのような、男で更に才人のいけすかないキザな性格であれば話は別ではあるが。

「平民が貴族に恥をかかせてただで済むと思ってるの? ふざけないで」
「この前のことは悪かったよ、ごめん」

 確かに以前のことは悪かった、と才人は秘を認め、頭を下げた。
 しかし、ルイズはただそれだけで才人を許すほど寛容ではない。

「はあ? ごめん? そんなんで許されるとでも?」

 ルイズは飽くまで『決闘』という形で事態が収束することにこだわっていた。
 受けた恥辱を何倍にして勝ち、尚かつ平民が貴族に逆らえないように『見せしめ』にしたかったからだ。

 ルイズはトリスティンの名門ヴァリエール家の三女として生まれ、幼い頃から強力な魔法の才能の片鱗を見せ、現在も学園内で最高の実力を持つメイジである。
 何一つ不自由することもなく、親や教師達から叱責を受けることも、生徒達からは妬まれはすれ、さげすまれることを一度も経験したことがなかった。
 そんなルイズが、傲慢になるのは無理もない。
 才人が本意ではないが味合わせてしまった屈辱は、ルイズにとって到底考えられぬものだったのだ。
 ルイズの中で渦巻く怒りは、もはや才人の血によって冷やされて、才人の屈辱的な謝罪を聞かなければ、もはや収まりそうになかった。

「平民が貴族に恥をかかせるなんて……普通だったら即死刑にされたっておかしくはないのよ?
 『決闘』という形で、万が一、いえ、兆が一でも生き残れる形にしてあげたことに感謝なさい」

 もちろん、平民が貴族に恥をかかせただけで死刑にされるという法律はない。
 しかし、極一部では、貴族に恥をかかせた代償にその平民の命が支払われることはままある。
 メイジは杖を一本持っているだけで、多くの種類の凶器を握っているのと同じになるのだ。

「なんだよ、それ。無茶苦茶じゃねぇか!」

 温厚に済ませようとしていた才人も、ルイズの傲慢な言葉に態度を硬化させた。
 確かに自分が本意ではないとはいえ巻き込んでしまったことは悪かったと思っている。
 それに加え、女の子がああいう目にあうのは男のそれとは大きく違うことも分かっている。
 しかし、それだけで死刑、決闘、というのはおかしい、と才人は納得できなかった。

「大体、人のことを平民、平民って、貴族がそんなに偉いのかよ!」

 ルイズの言葉からは、貴族と平民の歴とした差が見えた。
 貴族の命と平民の命は、決して等価値ではない、と。

 形式上だけでも全ての国民は平等であると憲法で保護されている世界から来た才人には、考えられないことだった。
 そういう不平等が世界に存在していることは十分に承知していたが、それが目の前にあり、尚かつ自分が低い方に捉えられているとなると、義憤を覚える。
 才人はルイズが女の子であることを忘れ、睨み付ける。
 ルイズはそんな才人の視線に気付くと、ふん、と鼻で笑いながら言った。

「バカじゃないの? 偉いのよ」

 当然だ、と言わんばかりに見下した目で見られていることに、才人は気が付いた。
 辺りを見回してみると、囲んでいる貴族達も、ルイズほどでないが、同じようなものが含まれていた。

 才人は、それがたまらなく悔しく感じられた。
 そもそもここへ来たのも、自分の意思ではない。
 もう既に召喚されたことに対して、タバサに恨みなどを持ってはいないが、この待遇は気にくわなかった。
 あからさまな挑発と、人を人とも思わぬ傲岸さに臓腑が煮えくりかえる感触を覚える。

「ああ、わかったよ。決闘、受けてやるよ!」

 頭に血が上り、興奮した才人はルイズの決闘に応じることにした。
 野次馬たちはにわかに声を上げ、これから始まる出来事を期待している。

「じゃ、ヴェストリの広場でやりましょ。怖かったら、逃げてもいいわよ、平民」
「それはこっちの台詞だ。何てったって、お前は女の子なんだからな。逃げたところで、誰だって笑いはしないぜ」

 ルイズは、才人の言葉に再び屈辱を感じた。
 が、しかし、そのときは言葉を出さず、のど元まで迫った罵倒をぐっと押し込めた。

 今はまだ好きなことを言わせておけばいい、決闘で白黒つけたとき、地面に倒れ伏したこの平民の頭を踏んづけて訂正させてやるわ。
 何の変哲もなく、味も素っ気もない水をおいしく飲むためには、限界まで喉を渇かせることだ、とルイズは思って堪えた。

「ふん!」

 ただそれだけ言って、ルイズはさっさとヴェストリの広場の方へと早歩きで向かった。
 大部分の取り巻きはルイズを追い、数人の男の貴族が才人の近くに留まっている。

 ふと、才人は辺りを見回した。
 中庭に出された白いテーブルと椅子の一つに、青い髪をした少女が座っている。
 誰も寄りつかないそこで、ゆっくり本を開き、近くで起きている騒ぎなど何もないかのようにそれを読み続けている。
 不意に吹いた風が、少女の髪を揺らし、本のページが何ページもまくられる。
 かなりのページが風によってめくられたにも関わらず、彼女はページをまくり返すこともせずそのまま読み続けていた。

 あれは、本を読んでいるのではない。

 それは才人がこちらに来てから、一週間もしないうちに気付いたことだった。
 本を読んでいるのではなく、『本を読む』という行為をしているだけなのだ。
 どう違うのかというと、本を読むということは本に書かれている文字を読み、それを理解すること。
 『本を読む』という行為をするということは、文字を読みはするが、言ってしまえばただそれだけ。
 書かれた文章が作者の知恵、知識と見るか、それともただの字の羅列と見るか……。

 少女……タバサにとって本に書かれた内容などどうでもいいことだった。
 それこそ、学術書だろうが取るに足らぬ三文小説だろうが、読むことのできない外国語で書かれた本だろうが幼児が字を覚えるために読む絵本だろうが……例え本が逆さになっていても、タバサは頓着すらしないだろう。

 才人は大きく溜息をついた。
 一体自分は何をしているのだろうか、と。
 ルイズの挑発に乗り、ムキになって決闘に応じた自分が、途端にバカに見えてきた。
 自分にはもっと大切なやるべきことがあるのに。

「まあ、いいか……」

 とはいえ、今更決闘するのをやめて逃げる気も起こらない。
 その上、才人はポジティブに物事を考える性格だ。
 くよくよしていてもしょうがない、といいことを考えることにした。

 あるいはあの鼻っ柱の高いヤツをこてんぱんにのしてやって、自分が頼れる存在である、と知らしめてやればタバサのあの性格もちょっとはよくなるかもしれない、と。
 まずそんなことはありえない、と才人は自分でも思ったがそれでもやってみようという気にはなった。

「ふーっ」

 大きく息を吸い込んで空を見上げる。
 空は初めてこの世界に来たときのように晴れ渡っていた。

 才人はゆっくり目を閉じて顔を下げると、心を決めた。
 そして、近くにいた貴族の一人の肩に、ぽんと手を置いた。

「で、ヴェストリの広場ってどこにあるんだ?」







 ヴェストリの広場にて、名門ヴァリエール家の三女にしてトリスティン魔法学院今期最優秀生徒であるルイズと、
 本名も正体も知れぬタバサの使い魔、平賀才人との決闘が行われようとしていた。
 観客達は、この異色の組み合わせに一体どういう結末を迎えるのか、やや興奮した様子で事態を見守っている。
 とはいえ、この場に居合わせた人のほぼ全員がルイズの勝利を疑っていない。

 例外は才人その人であり、この場に立ってから、どうやって決着をつけようか、などと呑気なことを考えていた。
 まさか女の子を殴るわけにもいかず、どうやって負けを認めさせるかを方法を模索している。

 一方ルイズは、決闘の前に、貴族らしく長々と前口上を述べていた。
 いかに才人、平民が行った行動が浅慮であったのか、観客に訴え、才人に向かって当て付けている。

 しかし、才人はその言葉を聞いてすらいない。
 どうせ人を小馬鹿にしたことしか言っていないんだろ、と才人側が完全に無視をしていたのだ。

「……というわけで平民は貴族に逆らっちゃいけないのよ。わかる?」

 全く話を聞いていないことが腹に据えかね、ルイズは話を才人に振った。
 才人は面倒くさそうに軽く手を振り、はいはい、と言ってから言いたいことを言う。

「ごちゃごちゃうるさいよ、お前。んなこと、どうでもいいし」

 概ねルイズの意見と同じ物を持ち合わせている周りの貴族達も、失笑を漏らした。
 くすくす笑いの声が辺りから聞こえてくる。
 ルイズは更に怒りのボルテージを上げた。

 それでも尚、冷静になろうと努めていた。
 ここで怒って見せたら、才人や見ている貴族達の思うつぼだ、と必死に自分に言い聞かせ、自制をする。

「あ〜あ、これだから無学な平民は嫌なのよ。
 どうやら、叩きのめしてその体に直に分からせてあげないとダメみたいね」

 才人は、どうしてこんなにこいつは自信があるんだろう、と思った。
 そもそも男性と女性というハンディキャップがあるにも関わらず、ここまで大口をたたけることが不思議だった。
 小柄な体に実は強靱な力と技が隠れているのか、と思えど、そのような素振りはない。

 才人は最も基本的なことを忘れていた。
 すなわち、ここは魔法使いの世界で、ルイズはその魔法使いであることを。

 ルイズは素早く杖を構えるとルーンを紡ぐ。
 才人が気付いたときにはもう既に遅く、呪文が完成して、才人に向かって魔法が放たれていた。

「ぐがッ!」

 見えない何かに頭を殴打され、才人は地面を転がった。

 『エア・ハンマー』
 圧縮された空気の塊が相手を襲う、風系統の基本的な攻撃魔法である。
 今回才人に向かって放たれたそれは、威力をある程度絞ったものだった。

「始まって直ぐに死んじゃったりしても面白くないから、手加減してあげたわ。
 私が本気を出したら、あんたの中身の詰まってない頭なんて熟れたトマトよりも簡単につぶせるのよ」

 ルイズは新しい杖を弄びながら、勝利の喜悦にうっとりと酔いしれた。
 やはり魔法の力は圧倒的で、平民などに負けることはない、と一般的な見解はこの場でまた証明されたのだ。
 この後は地面を転がっている平民に、何度も何度も『エア・ハンマー』を浴びせかければよい。
 そうやって徹底的に肉体を痛めつけ、その後無様に土下座させ、精神をもねじ伏せればルイズの矜持は保たれることになる。
 遅かれ早かれ、自分の望む展開になるだろうとルイズは確信していた。

 エア・ハンマーに頭を殴打された才人は、軽く頭を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。
 鈍痛は酷く、目の焦点が少しずれているが、まだ立ち上がることはできた。

「この私に、何か言うことはないの?」
「別に……。今俺が思っているのは、へなちょこ過ぎて、あくびが出そうだ、ってことだけだ」

 才人は何故このような大口がたたけるのか、自分自身でもよくわからなかった。
 見えない鈍器の威力は、たった一撃だけで嫌と言うほど味わった。
 謝るのは癪だが、これをもう一度食らうよりかはいい……と思っていたはずなのに、口は全く違うことを言っていたのだ。

「そう……」

 ルイズは目を細めた。
 この状態でまだ減らず口をたたけることに、怒りを通り越してあきれを覚えていた。

 ただ、追撃の手を緩めないことに変わりはない。

「だったら、欠伸だけじゃなくて、泣いたり笑ったりできなくしてあげるわッ!」

 ルイズは再び才人にエア・ハンマーを浴びせかけた。
 一撃目のような単発ではなく、連発で。

 圧縮された空気の塊が、何度も何度も才人を殴打する。
 まるで才人の体は人形であり、見えない手で動かされているかのように、跳ねた。

 時には宙に跳ね上げられて、そのまま地面に打ち付けられ。
 矢継ぎ早に前後左右、倒れる間もなく放たれたエア・ハンマーによって、まるで踊りを踊らされているかのように蹂躙される。

 才人の着ていた服は、何度も何度も地面を転がらされたせいで泥まみれになり、あちこちすり切れている。
 額を切り、とめどなく溢れた血が、顔を真っ赤に染めていた。
 全身に無数の青あざが浮かび上がり、肌が剥き出しになっている場所には擦過傷があちこちに出来ていた。

「う……ぐぅ……」

 何十発もエアハンマーの直撃を受け、十何回もダウンした後、ようやく小休止が入った。
 才人は四つんばいになって、肩で荒く息をしている。
 何度も何度も血の塊のような痰を吐きながら、才人は咳を繰り返していた。

 ルイズはこれで最後にしようとした。

「土下座なさい。
 惨めに地面に額をこすりつけて、今までの非礼を詫びなさい。
 平民らしくみじめったらしく泣き叫んで、命乞いをしなさい。
 そうしたら、貴族の尊い慈悲を授けて、命だけは助けてあげる」

 才人は、顔を上げた。
 激しくむせながら、ゆっくりと体を起こす。
 少し動いただけで全身に痛みが走るのを耐えながら、なんとか立ち上がることができた。

「謝ったら……命を助けてくれるのか?」
「ええ、いいわよ」

 ルイズは勝った、と思った。
 才人の目は、もはや闘争者のそれではなく、敗北者のそれに見えた。

 自分の命を守るためには自らの矜持を投げ捨てる、平民のそれが見えた。
 貴族であれば絶対にそのようなことはしない。
 自らの矜持を自らの手で汚し、捨てるようなことは、例え死んでもしないのだ。

 だから平民は貴族に劣っているんだ、とルイズは思い、満足した。

「だが断る」

 才人は、血の塊を唾と一緒に吐きだした。
 口の中はずたずたに傷がつき、血によって真っ赤に染まり、ねばついていて気持ちが悪い。

 ルイズの要求に応えなかったのは、もはや意地だった。
 こんな目に遭わされて、挙げ句の果てに土下座しろ、などと理不尽極まりない要求は絶対受けられなかった。
 それによってどんな損をしようとも、『相手の思い通りになってやらない』というとても魅力的な行動には変えられない。

 この平賀才人の最も好きなことの一つは、自分で強いと思っているヤツに『NO』と言ってやることだ。
 口の中がずたずたで痛かったために、言わなかったが、そういう風な意味合いをこめて、才人はルイズをにらみ返した。

「そう……だったら、死になさいッ!」

 もはやルイズは容赦の一片もする気がなかった。

 平民のくせにコケにした。
 平民のくせに手を患わせた。
 平民のくせに生意気だ。

 平民のくせに命と引き替えに誇りを守った。

 それがルイズはとても許せなかった。
 最も高貴たるものは、貴族だけが持つことを許されている、というのがルイズの持論である。
 それからはみ出す存在を、ルイズはとても憎く思った。

 本来ならば殺す気はなかった。
 しかし、才人があまりにもルイズの癇に障る存在だったが故に殺意を覚えるに至ってしまった。

 ルイズがルーンを紡ぐと、無数の氷の矢が出現した。

 『ウィンディ・アイシクル』
 氷の矢を放ち、対象に突き刺す攻撃魔法である。
 エア・ハンマーよりももっとずっと攻撃的で、殺傷能力が高い。

 氷の矢が唸りを上げて回転する。
 鋭利な先端は、目標を才人に合わせたまま、発射されるのを今か今かと待っているようだった。

「……死になさい」

 氷の矢のように、鋭く冷たい声だった。
 『雪風のルイズ』の掛け値無しの全力の一撃。
 宙に浮いていた氷の矢が、キィィィと変わった風切り音を発しながら、才人へと向かって放たれた。







 才人は、今現在自分が決定的なピンチであると理解していた。
 目の前にはルイズが立っており、なにやら杖を掲げて呪文を唱えている。
 『だが断る』と大見得を切ってみたものの、実際のところを言うと、まだ死にたくはない。
 呪文の内容は聞き取れなかったが、今までさんざっぱらぶつけてきた空気の塊の魔法ではないがわかる。
 本能的に、次が最後になるということを理解していた。

 何かあがこうと思ってみても、膝はがくがくだし、全身が痛くて走れそうになかった。
 歩くことはかろうじてできるが、それでも普通の歩行スピードよりもぐっと落ち、さして意味がないことはすぐわかる。

 必死に頭を絞っている間に、時間は刻一刻と無くなっていく。
 もう逃げられないか、とやけっぱちに考えて、なんとなしにパーカーのポケットに手を突っ込むと、偶然、そこに打開策があった。
 それをポケットの中から引きずり出すと、才人は今までとは違う世界を見た。

 まるでコマ送りをしているかのようにゆるやかに動く世界。
 取り囲んでいる貴族も、呪文を詠唱しているルイズも、みなスロー再生しているかのように遅く動いている。
 才人は突如変貌した世界に驚かなかった。
 自ずと、何故このような世界になったのか、理解できていた。
 心の奥が震えているかのように精神が昂揚し、ただただ才人その人にすら理解できないような歓喜が全身を突き抜ける。

 こんなトロい世界で負けていたのか。
 才人は世界そのものと過去の自分に対する嘲りの意味を持った自嘲の笑みを浮かべ、地面を蹴った。


 貴族達は息を飲んだ。
 ルイズは確かにウィンディアイシクルの呪文を完成させた。
 トライアングルクラスにならなければ使えない高位の攻撃魔法は、確かにかなりの練度でもって構築なされた。
 氷の矢の密度、数、温度ともに最適であることは、少し成績のよいメイジであれば直ぐに見抜けたし、矢の速度だけで言えば、誰しもが驚嘆するほどのものだった。
 あと数年の鍛錬を積めばトライアングルクラスからスクウェアクラスに上がるとまで言われていた、トリスティン魔法学院の天才ルイズの放った魔法の中で、一番、完成度の高いものだったと言えた。

 しかし、避けられた。
 幼子に押されただけで倒れそうなほどボロボロになっていた平民が、弾かれるように動いて、全ての氷の矢を避けてしまった。
 およそ人間とは思えぬ速さと動きで、矢と矢の間に体を通したのだ。

 次の瞬間、貴族達は、爆笑した。
 ルイズでさえも、自分が決闘をしている最中であることを忘れ、腹を抱えて笑っていた。

「ちょ、ちょっと……あ、あんた、な、何してんのよ! ぷっ、くくく……だ、ダメ、もう我慢できない!」

 人間離れした芸当を見せた才人は、パーカーのポケットの中から出したスリングを振り回していた。
 両足を開いて、膝を落とし、やや前傾姿勢でスリングを振り回している格好が、貴族達にはまるで原始人のように見えた。
 もう少し冷静な目を持っていれば、スリングに装填されたものが、氷の矢だということがわかっただろう。
 高速で放たれた氷の矢を避けるまでならまだしも、スリングに引っかけ、そのまま回転させることがどれだけ困難のことか、この場で理解できたものは誰もいなかった。
 ただただ、スリングを振り回す格好だけが、滑稽であると受け止められて、その場の全員は笑っていた。

 スリングから放たれる弾丸がどれほど威力を持っているか、などとは誰も考えなかった。
 とはいえ、それは無理もないことだったのかもしれない。
 この世界では、子どもであったダビデが、体長3メートルを超え、平然と四十キロをも超す青銅の鎧を身に纏う大男ゴリアテを、投石紐でその頭蓋をたたき割ったことなどなかったのだから。

 それにこの場にいるのは、そういった単純且つ威力の高い兵器など見たこともない若いものばかり。
 加えて彼らは貴族であり、魔法ではないただの兵器など小馬鹿にしているもの達である。
 彼らにとって剣であろうが銃であろうが、それは力を持たぬちっぽけな平民が、貴族に刃向かうために無い頭を絞った心許ないただの牙でしかない。
 今才人が持っているものは、その牙の中でもかなり原始的な部類に入るものである。
 むしろ、笑うな、という方が無理だった。

「ひ、卑怯よッ! そ、そんな笑わせて魔法を使わせないなんて、くくく……あははは、だ、ダメ、わ、笑い死……ぶぐぅ」

 才人は嘲笑に対して何のリアクションも起こさなかった。
 右手の回転を時間と共に速めていき、まっすぐ、投擲対象であるルイズを見つめていた。

 今や才人はこの世界の何者にも動じなくなっていた。
 才人は自分の中に自分だけの世界を作りだし、そこでただ目的を果たすためだけに精神をとがらせていた。
 全力を注ぎ、破壊力、命中力を現在の体力で作り出せる極限まで高め、そしてスリングの片方の紐を手から放した。

 ルイズが助かったのは奇跡としか言いようがなかった。
 たまたま笑いの間に息を吸うタイミングを設け、杖をほんの少し体に引き寄せたことが、彼女の命拾いの理由だった。
 自分が作り出し、才人に利用された氷の矢は、その杖のちょうど真ん中部位にぶち当たった。
 ルイズは氷の矢が直撃した杖に巻き込まれるような形で、地面を転がった。

 一気に場が静まりかえる。
 貴族の輪の中では、投擲したポーズそのままで立つ才人と、地面を何回転もして転がったルイズ。
 後者は、背中を地面につけたまま両足のつまさきが地面に触れており、お尻は天高く掲げられている。
 短めのプリーツスカートが盛大にまくり上がり、下着が丸見えになっているという衝撃的な格好なのだが、それでも静まりかえっていた。

 少し遅れてから、ルイズは体勢を立て直した。
 酷く腹部が痛むのでさすりながら、よろよろと立ち上がって、ようやく自分が吹き飛ばされたことに気が付いた。

「こ、このッ!」

 もはや先ほどまでの笑いは消えて、地面に落ちていた杖を拾って呪文を唱える。
 が、魔法は出なかった。
 それもそのはず、手に持っている杖は真ん中のところでぽっきりと折れてしまっていたからだ。

「えッ、ええーッ!?」







 才人は杖をへし折った。
 それでも尚、ルイズが有利なはずだった。
 満身創痍の才人は、それこそ、少し強い風が吹いただけで倒れそうなほど弱っている。
 これでは石を拾おうとしただけで転んでしまうだろうし、何にしろ付近にスリングで投げられる大きさの石は落ちていなかった。
 このままルイズが、体当たりをしかけるだけでも、十分才人には勝てる。

 しかし、そういった現状とはまた別に、ルイズは精神的に負けていた。
 杖を折られるというのは通常の決闘の上で、それだけで敗北を意味する。
 貴族同士の決闘は、最後まで殺し合うほどでなければ、杖を折るだけで相手の戦闘能力を解除したと見なされる。
 ただ今回の場合は、相手が平民で魔法が使えない相手。
 それ故まだ決闘は継続しているのだが、杖、ひいては魔法をよりどころにするメイジにとって、それの喪失は実際以上の効果がある。

 それに加え、才人の動きがルイズには不気味に見えた。
 体全体を左右に揺らし、よたよたと歩く姿は、まるでアンデッドのよう。
 しかし、一歩一歩近づいてくるその姿は、ルイズにとって脅威だった。

 喉が引きつり、上手く声が出せないルイズ。
 逃げようと思えど、足はまるで根が生えたかのように動かない。
 すぐそこまで来て、ルイズは才人の目を見たとき、恐怖はより一層高まった。

 まるで、アリでも見るかのように見ている。
 ルイズは背筋の毛を全て立たせて、才人の目を見る。
 顔全体が血まみれになっているせいか、目がくっきりと映っており、その奥には光が存在していない。
 真っ正面からこちらを見ているだけなのに、何故か見下ろされているような……ルイズの精神状態のせいもあったが、そう見えた。

 もしもアリに人間ほどの感情があり、その感情を言語化出来るほどの知性があったなら、
 全てのアリがまず間違いなく考えることをルイズは考えた。

 すなわち『踏みつぶされる』と。

「その決闘、ちょっと待った!」

 援軍はルイズはおろかこの場にいた貴族達の誰しもが、気付かなかった方向から来た。
 貴族の輪をかき分け、バラの造花を加えて、空気を読まずにやってくる。

 土系統のドットクラス、ギーシュ・ド・グラモン、ここにあり。

 予想だにしない事態に貴族達は、ぽかんと口を開けて驚いている。
 ギーシュはそれに気づきもせず、注目を集めていることに、満足げに微笑み、ルイズと才人の間に割り入った。

「今回の決闘、引き分け、ということでどうかな、お二人さん」
「はあ? ふざけんな、引っ込んでろ、タコ」
「た……タコ? いや、待ちたまえ、悪いことは言っちゃいないさ」

 ギーシュはそっと才人の傍らに行き、耳元で辺りには聞こえない小さな声で囁いた。

「普通決闘では、勝っても負けても互いに恨みっこ無し、というのが良識とされている。
 だが、やっぱり貴族と言えど人間だ、どちらが勝った負けたで遺恨はどうしても残るんだよ。
 もし君がこの場でルイズに勝ってしまえば、以降ヴァリエール家から好印象で見られることはなくなるね。
 君は平民だから知らないのかもしれないけど、この国でヴァリエール家に刃向かうと、大抵の人はいい死に目は会えないのさ。
 引き分けにしておけば、君は負けなかった、ルイズにも勝たなかった。
 それで八方丸くおさまるのだから、それがベストとは思わないかい?」

 ギーシュは囁き終わると、才人の返事を待たず、身を翻した。

「さあ、彼もこの勝負引き分けであるということを認めた」

 観衆に向かって、『名ジャッジをした!』と言わんばかりの態度でギーシュは言った。
 今まで驚愕の連続だったために、未だ観客達は感覚の麻痺状態に陥っていたものの、次第にざわざわと騒がしくなっていく。

 才人は、すっかりしらけて、スリングをパーカーのポケットに入れた。
 なんだかんだ言って、まあ、それでもいいか、なんて思ってもいる。


 しかし、全く逆の立ち位置にいた人は、納得することが出来なかった。

「ちょっと待ちなさいよ! ギーシュ!」

 ルイズは、今まで恐怖で固まっていたことなど忘れて、ギーシュに噛みついた。

「私は負けていないわ!」
「そうだね、ルイズ。君は負けなかった。しかし勝ちもしなかった。それでいいじゃないか」
「ダメよ! もう少ししたら私が勝っていたんだから!」

 もうさっぱり、さっきまでのことは忘れているらしい。
 ルイズはちらと才人を見た。
 相変わらず顔は血まみれで、どことなくしらけた様子だが、さきほど才人の目を見て抱いた感想はこれっぽっちも沸きそうにない。
 やっぱり、あれはただの気のせいだったか、と思考を戻し、ルイズは更にギーシュに文句を言った。

「第一、貴族が平民に負けるわけないじゃないの!」
「だから、君は負けたわけじゃないさ。引き分けというのはどちらも勝たず、どちらも負けぬ結果なんだよ」
「それじゃダメなのよ!」

 ルイズに求められているのは必勝、それのみだった。
 それ以外ならば、引き分けも負けも大差ないゴミクズなのだ。
 ゴミクズを認めるならば、自分もまたゴミクズとなる。
 それだけは許せなかった。
 もはや、自分の矜持だけの問題ではない。
 ヴァリエール家全体の、厳しくも優しい父と母と厳しい姉と優しい姉の名誉をも傷つけかねないことになる。

「まあまあ、落ち着きたまえ、ルイズ。
 君にとっても引き分けた方が良い結果になるんだとボクは思うよ。
 ここは一つ貴族らしい寛容な心でもって、許してあげた方が得策だろう?」

 ギーシュは才人にやったように、ルイズの耳元で囁いた。

「確か君はトライアングルクラスだったろう?
 トライアングルクラスの『固定化』がかけられた杖を、あの平民君はまっぷたつにしてしまったんだぞ。
 もしこのまま決闘を続けて、あの投石を今度は君の体で直接受けたら一体どうなるか……。
 まあ、そのときにへし折れるのは、杖じゃなくて君の背骨だと思うがね。
 僕は土系統のメイジだから門外漢なので、とある水系統のメイジに聞いた話なんだが、
 背骨が折れたら下半身が動かなくなるそうじゃないか。
 君だって、その年で片輪にはなるたくあるまい?」

 ギーシュはまた、自分の言いたいことを言い終わると返答など聞かず、観衆の方に体を向ける。
 両手を大きく上げ、満足げな表情を浮かべた。

「ルイズも、引き分けでいいそうだ。
 このギーシュ・ド・グラモンの大岡捌きで一件落ちゃ……う……」

 ギーシュは途中でゆっくりと地面に崩れ落ちた。
 両手は股間部に添えられて、尻を高く上げたまま、内股の格好でうつぶせになって倒れていた。

 ルイズが咄嗟に後ろから男性の急所を狙った蹴りを放ったのだ。
 しこたま、玉を打ち付けたギーシュは、そのインパクトに耐えきれず、その場で無様な姿をさらすことになった。

「私はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールなのよッ!
 へ、平民なんかに負けるわけないじゃないのッ!」

 ルイズはその場で平民を侮蔑する言葉を吐き続けた。

 才人に向かって決闘の続きを徒手でやる勇気はない。
 実際には、徒手での続きを望んだ場合、勝つのは確実にルイズであるが、そのことを彼女は知らなかった。
 知ったところで、まるで自分の存在を道ばたに落ちている紙くずか何かのように見てきた目を持つ者と、不必要な関わり合いを持ちたくはなかった。

 しかしその反面では、貴族として、ヴァリエール家として負けるわけにはいかない自分がある。
 今すぐ逃げ出したい気持ちと、逃げ出してはいけない気持ちが互いにぶつかり合い、ジレンマが発生していた。
 混乱する思考の中、ルイズが到着した末は『平民を徹底的に見下す言葉を言う』だった。
 何故そういう風になったのか、今自分が一体何を言っているのか、ルイズ自身すらわからずに、ただただ平民を悪罵し続けた。

 普通の貴族優位主義の思想を持つ、観客の貴族達ですら引くほどの、
 ルイズの知識知恵を結集した中身のない悪口が、堰が壊れたかのように流れ出る。

 才人はそんなルイズを冷たい目で見下ろしていた。

「死ね! 死んで詫びなさい! あんたら平民が生きていたって何の価値もないのよ。
 だったら、死んでこの世に生まれてきたことを……」

 一瞬、ルイズは何が起こったのか理解できなかった。
 今日は、自分の状況が理解出来ないことが連続して起こっているが、とにかく分からなかった。
 少なくとも、冷静でなくなっている今のルイズの頭では理解出来なかった。

 正面を向いていた顔が、いつの間にか右の方向を向いている。
 そして、左の頬には焼けるような痛みが走っている。

 顔を戻すと、右腕を左上に上げている才人がいて、それを見てようやく悟った。

「ぶ、ぶっ、ぶったわね! きっ、き、貴族様にへ、平民が手を出すなんて、そ、そんなこと許され……」

 再びルイズは思考停止状態に陥った。
 今度は正面を向いていたはずの自分が左を向いている。
 例のごとく向いている方向と反対側の頬には焼け付くような痛みが走っている。
 正面を向くと、前回と同じく、才人が向いた方向と同じ向きに手を振り上げていた。

「に、二度もぶった! お、お父様にもぶたれたことないのにッ!」

 三度目になるともうルイズは、自分に何が起こっているのか最初から理解できた。
 じんじんと痛む頬のままに、再び正面を向く。

 何故か、視界には才人は映らなかった。
 とはいえ、才人が正面に立っていないわけではない。
 確かに才人はさきほどから変わらぬ位置に立っている。

 しかし、正面を向いたルイズの目には映らなかった。

「う……う……な、泣いて、ないわよ!」

 瞬きするたびに、瞳から溢れる熱い液体は大粒のまま頬を流れ落ちる。
 痛む頬に涙が伝い、じんじんと更に痛みが増していく。

「わ、私は、ルイズなのよ! こんなことで、泣くわけ、ないじゃないのッ!」

 夏の夕立のように、最初はぽつぽつと流れていた涙が、瞬時に滝のように大量に流れ出る。
 必死で自分は泣いていないことをアピールするルイズだが、誰がどう見ても言葉とは反対の状態にあった。

 才人はもはやルイズには興味を無くし、背を向けてよろよろと歩き始めた。

「う、う、うああああああッ! ああああああッ!」

 響き渡るルイズの大きな泣き声も無視して、先ほどの中庭の方向へ足を向ける。

 ギーシュは引き分けと言ったが、これは引き分けではない。
 その場にいた貴族は全員そう考えていた。
 あの天才ルイズが、入学当初から極めて優秀な生徒として注目されていたルイズが、今は人目も憚らず大声で泣いている。
 この状況を見て、誰が引き分けと考えるか。

 才人は確かに血まみれで、泥まみれで、お世辞に言っても乞食と同然の格好。
 しかし、そのボロボロな体に纏う威圧感は、貴族達には目に見えるかのようだった。

 片や頬を赤くしているだけだがその場で泣きじゃくる者と、片や満身創痍だがハリネズミのように戦意をむき出している者。
 この決闘の、どこが引き分けなのか。

「どけよ」

 道を遮っていた貴族の野次馬達に、才人は言った。
 すると野次馬達は一瞬でざっと横に動き、道を造る。
 平民に「どけよ」と言われたら怒り狂い、当然道など譲らない貴族達だが、今回はほとんど反射的に動いていた。

 誰に媚びを売ることもせず、誰も寄せ付けぬ雰囲気を纏った決闘の勝者は、
 足取りは不安げな、しかし確実に他者の助けもなく、ヴェストリの広場を後にした。



 才人は中庭に来た。
 いつもはこの時間帯は貴族が食事をしたり歓談したりとにぎやかな場所だが、今日はたった一人しかいなかった。
 隅っこの方のテーブルの席につき、例え空から月が降ってこようと平然と読書を続けているだろう印象を受けるタバサだった。
 才人はタバサのテーブルの、空いている席に腰掛けた。
 だらーと両手足を伸ばし、背もたれに寄りかかり、血まみれの顔を天に向けて、才人は語り出す。

「あー、ルイズってやつと決闘してきた」

 タバサは何の反応も返さない。
 しかし才人はそれを承知で語り続けた。

「平民だの貴族だの一々うるさいヤツだったからな。
 ちょっと魔法が使えるってんで、こっちもこんなザマになっちまったけど、勝ったよ」

 才人は段々視界が霞んでいることに気が付いた。
 目の前が白みを帯びて、輪郭が朧気になっていく。

 それが何の予兆なのか察した才人は、体を起こす。
 最後にこれだけは言っておかければ、と、必死になって意識を保とうとした。

「ルイズをぴーぴー泣かしてやったよ。へっ」

 ゆるやかにぐらつく視界、段々と途切れ途切れになっていく思考。

「お前、ゼロだなんだと言われてるらしいけど、まあ、俺っていう強い使い魔を従えてるんだから……。
 その……なんだっけ……」

 もはや限界に達していた。
 ふらつく体を支えるために、テーブルの上に腕を載せた。
 あざが無数に出来ている腕に激痛が走るが、そんなことは気にならない。

「悪い……なんかちょっと疲れちまった……眠る、わ……」

 そのまま顔もテーブルの上に載せる。
 そして、才人はそっと意識を手放した。







 平賀 才人は夢を見た。
 その夢の内容がなんであるか、目覚めたときには全く覚えていなかったが、『どんな感じなのか』は覚えていた。
 氷で出来た布団に眠らされているかのような、痛いほど冷たい夢だった。

「……ッはッ……はぁはぁ……ッ……」

 シーツをはね除け、才人は息を切らせて起きあがった。
 直後、全身に走る痛みに顔を歪めて、唸り、悶える。
 眠っている最中、何度も何度も寝返りを打ち、苦しそうにうなされていたためか、前髪が額に張り付くほど汗まみれになっている。
 痛みを堪えると、右手で前髪を寄せ、顔を上げた。

 トリステイン魔法学園であることは、窓の外に見える建物から推測出来たが、今まで見たことのない部屋にいた。
 服は脱がされ、その代わりに包帯が体のあちこちに巻かれている。
 包帯の巻き方に卒がないため、ある程度看護の経験がある人間がやった、となるとタバサはもちろん貴族ではない。

「……あ……」

 不意に思い出したかのように頭痛を覚えた。
 あれほど酷い目に遭わされて、死んでいなかったとはいえ、そのことを素直に喜ぶ気にはなれない。

 才人は、そのまま再びベッドの上に横になった。
 体を動かそうとするたびに全身がずきずきと痛み、酷く億劫だった。
 柔らかい、とは決して言い難いが、床などより何十倍もマシなベッドで目をつぶる。
 怪我を治すためというよりかは、痛みから逃避するために、呼吸を小さくし、ゆるやかに眠りに落ちていった。
 
 
 
 才人が再び目覚めたとき、そこには人がいた。
 ハルケギニアで、最も才人が親しい人物であるシエスタが、才人の体の包帯を取り替えているとしているところだった。

「……ん……」

 才人は薄目を開けて、目の前の人物を見た。
 大方予想通りの人物だったため、別段驚くようなことはない。
 ただ、申し訳ない、という気持ちはあったが。

「あ、気が付いたんですね」

 才人は起きていることに気が付いたシエスタは、手を止めずに、才人に声を掛けた。

「うん……まあ、その、迷惑かけてごめん」

 目覚めてすぐに謝る才人に、シエスタは苦笑を呈しつつも、やはり作業を止めない。
 起こそうとしてくるシエスタに対し、自分からも協力し、体を起こす。
 地面を転げて傷ついた箇所に新しいガーゼと交換され、清潔な包帯が巻かれる。
 両者無言のまま、刻々と時間は経っていった。

 全ての作業が終わると、才人は会話の口火を切った。

「えーと……俺は一体どのくらい気絶してた?」
「三日です」

 シエスタはにこりと満面の笑みを浮かべて言った。
 当然、その心中が表情とは逆ベクトルに向いていることは状況から見て、明らかだった。
 こうなると才人はなんと言えばいいのかわからなかった。

 三日も世話をさせていたことを謝ればいいのか、礼を言えばいいのか、何分そういった経験がないのでわからなかった。

「驚きましたよ。
 デザートのお皿を片づけようと中庭に来てみたら、貴族の皆様は不在で、
 代わりに血まみれで気絶している才人さんがいらっしゃったんですから」

 依然変わりなく、シエスタは笑顔のまま。
 その能面のような、無機質な笑顔はいっそ不気味さすら感じられる。
 ルイズと相対したとき、メイジと平民の間に存在する力の差に気付いても尚引くことをしなかった才人だが、今回ばかりは分が悪かった。
 この時点で謝る方向性で考えを固めたが、さて、なんと謝ろうかと言葉を考えている間に、シエスタはさらに言葉を続けていた。

「そのときは大急ぎで才人さんの応急処置をしました。
 でも後で一体何が起きたのか聞かされたときには、私の方が気絶しそうになりましたわ」
「いや……その……シエスタ、ご、ごめん……」
「いくらなんでも……貴族の方……それもミス・ヴァリエールと決闘するなんて……。
 勇気があるんですね、とは言えません。無謀が過ぎますわ」

 ますますもって居心地が悪くなっていく。

 決闘はルイズと才人の間に起こったいざこざであり、第三者であるシエスタには大した関わりはないはずだった。
 しかしここで、「君には関係ない」と言えるほど才人は恩知らずではない。
 ハルケギニアに来てから、平民の何人かと親しくなっているが、シエスタはその中でも一番親しい間柄だった。
 恋愛、という枠にはまだ当てはまってはいないが、友人であることは確かだった。

 シエスタが優しい気性をしており、知り合いが困っていたら放っておけないことも知っているために、尚更だ。
 才人はしばらく、ベッドの上から動けないまま、シエスタの追及を受け続けたのだった。

 半日も経てば、才人は自分の足で立てるようになった。
 痛みが引いたおかげで、上手く堪えれば歩くことも出来る。

 今才人が寝ていたのは、学園長が手配してくれた特別な部屋で、しばらくはそのままそこを使っていいことになっていたのだが、
 才人は体に走る痛みを我慢して、タバサの部屋へと戻ることにした。

 シエスタは体の腫れや傷が悪化するといけないから、と引き留めたが、才人はそれでも帰ると言って聞かなかった。
 もちろん帰ったところで、タバサがそれを歓迎してくれるとは思っていなかったが、
 それでも帰ろうという気が何故か沸いてきた。

「まだ寝ていた方が……」
「いや、大丈夫。ありがとう、シエスタ」
「……では、肩をお貸ししますわ」

 高価な魔法薬を使っていれば、今頃才人の傷も完治していただろう。
 しかし、その代金を支払う人は誰もいない。
 それこそ、ヴァリエール家のルイズであればポケットマネーから出すことが出来ていただろうが、
 ガリアから逃げ出し、潜伏しているように生きているタバサに出せるわけがない。

 今回のことにおいて、何故か学園長が一室を無料で提供してくれたり、看護役としてシエスタに休暇を与えてくれたりと
 一使い魔としては考えられない破格の待遇を与えてくれたが、流石にそこまではしなかった。

 才人はシエスタの肩を借り、学園の中をタバサの部屋を目指して歩いていった。
 途中、学園の生徒の貴族達とすれ違う。
 彼らの大部分はその場で立ち止まり、才人のことを見ながら、仲間となにやらか話している。
 ヴェストリの広場での決闘は、トリスティンでもほとんど見られない結果に終わったとして、学園中に広がっていた。

 平民が貴族に、それもその中でもかなり強力な部類に入るモノを打ち破って、引き分けた。
 当然、手加減もなされただろうし、勝負の終わった状況を冷静に考えてみれば、引き分けだったということすら疑問が残るだろう。
 しかし、噂好きの人間にとっては、真偽や詳細なんてものは二の次。
 鼻っ柱の高い、トライアングルクラスのメイジであるルイズが平民に勝てなかった、というゴシップさえあれば満足なのだ。

 ルイズは、決闘の後に部屋に閉じこもり、今でも部屋から出てくる気配はない。
 それもそのはず、個人的感情から発する復讐として、いわば復讐決闘を行ったのに、
 また杖を折られ、おまけに頬を叩かれて、泣かされたのだ。
 生まれてから初めて受けた屈辱にショックを受けて、寝こんで起きられなくなるのも無理はなかった。

 ルイズが出てこないならば、と、貴族達は先に出てきた才人を、噂の的にした。
 そのまま数日間は、噂好きの貴族達が廊下で才人とすれ違うたびに、
 その場でヴェストリの広場の決闘のことについて話すようになったのはある意味自然な流れだったといえる。

 ……シエスタというメイドに肩を貸してもらう、というかなり密着した状態が、男子のあらぬ嫉妬を買ってしまったのは余談だが。